『ドードーの旗のもとに』第一部 作 じんのひろあき
  暗転。
 SE 密閉型のドアが開く音。
  舞台上手の奧、客席から見えないところにスタジオの入り口であるドア。
  そして、そこから役者が、次々と入ってくる。
  彼らが入ってきたのはいわゆるアフレコスタジオ。
  舞台ツラにマイクが二本、上手と下手に立っている。
監督「ようこそ、みなさん、ここの場所はすぐにおわかりになりましたか? 
一番の目印のフレンチのレストランが、今日に限って、三連休でご丁寧にシャ
ッターまで下ろしているもんですから、あのフレンチのお店にこっそり『ドー
ドーの旗のもとに』のスタジオはこちら、と張り紙でもしておこうかと思った
くらいで、でも、さすがみなさん、定刻通り、揃っていただけましたね、さ
あ、私のレコーディングスタジオのどうぞ中へ、中へ、お好きな所に座って、
すぐに始まりますからね、なにしろ私はせっかちなもので……」
渡辺原「どうぞどうぞ中へ、さ、さ、どうぞ中へ。お好きなところにお座りく
ださい。どうも、初めまして、レコーディングアシスタントの渡辺原です、よ
ろしくお願いします。監督どうぞ」
  この台詞の間にキャスト役のキャストは皆、自分の席へ、そこで朗読用の
バインダーを広げたりしている。
監督「それでは始めましょうか、緊張せずに、リラックスしてください。よろ
しいですね。今日は、ここでこうして君たちと出会えたことを、神に感謝して
やまない。だが、私は無神論者ではありますがね。そう神様よりも信じている
物が私にはあります、それは映画です。紹介が遅れましたが、私が監督の篁
(たかむら)です。どうぞよろしく。さて、本日、お集まりいただいたのは、
映画、『ドードーの旗のもとに』のレコーディングのためである。今日、君達
にお願いするのは、プレスコ、アフレコではなくプレスコというものです。映
画の絵が出来る前に、最初に声を録ってしまうというやりかたです。なぜ、画
がないのか。今日、レコーディングするのはまったく新しいシステムを使った
映画なのです。驚かないでもらいたいのだが、この映画は百年かかって製作さ
れる。この映画が完成し、ロードショウ公開されるのは二千百十一年なので
す。二千十一年ではなく、二千百十一年。今から百年後。よって、今日このレ
コーディングに参加してくれるここにいる君達はみな誰一人、完成した映画を
見ることは残念ながらできない」
それまで、自分の場所に向かって導線の通りに歩き、そこに荷物を置くと
か、飲み物をスタンバイするとかしていた人々の動きが急にぴたりと止まっ
た。
  キャストの人々がゆっくりと、諸々自分達が向いている方向から、ブース
があるらしい、前方、二階の上へと視線を巡らせる。
監督「私が目指すのは映画館でしか体験できない新しい娯楽としての映画で
す。一言で言うと、あらゆる映画館がそれぞれディズニーランドのアトラクシ
ョンのように、とにかくそこに出かけて行かなければ、体験できないし楽しむ
こともできない、そんな映画を、そんな映画館を作りたいと思っています。
 去年公開された、3Dの映画は五十本を越えるが、そのどれもこれもがまだ
試行錯誤の段階です。これらがすべて整備され、映画館そのものが作り替えら
れるまで、私は最低でも百年はかかると思っている。ただ、それだけかかると
なると、原作者であり、企画段階の監督である私の寿命とて、尽き果てるに違
いない。よって、次なる若い監督へこの仕事は引き継がれていくであろうし、
もしかしたら、さらに次の次の監督となる若者がこの映画には必要となるかも
しれない。その次の次の監督はもしかしたら、まだこの世に生まれているかど
うかも、わからない。この映画は百二十八、あらゆる国々の様々な企業が国境
にこだわらず出資しているコングロマリットプロジェクト。そして、今日ここ
に集ってくれた君達の名はこの映画『ドードーの旗のもとへ』完成した暁には
必ずエンドロールの最初に、残させてもらうことを約束する」
ハルビービ「公開が二千百十一年?」
渡辺原「そうです」
ムケルシ「なにか、今、見せてもらえるものはないんですか」
渡辺原「ございません」
バオブ「なぜですか?」
監督「まだ見ぬ映画を作ろうとしているからに他ならない。まだ見ぬ映画をお
見せすることはできない。まあ、とりあえず、やってみてはもらえないだろう
か? ただし、私のこの夢に興味が持てない、生きているうちに自分の仕事が
評価されないことには、いくら金を積まれたとしても、と思われる方は、どう
ぞ台本をこの場において、お帰りいただいても結構だ。だがこの映画について
は、そのドアを出たら、忘れていただきたい」

スタジオの中、誰も動かず……

レリーリ「私は……こんなところで言うことじゃないかもしれませんが、誠に
お恥ずかしい話ですが、事務所から台本を渡されたのは七十日ぶりです。私は
やります、やらせてください、どうか、お願いします」
ムケルシ「僕も、正直不安はいっぱいです。ですが、この不安はいつか自分の
財産になるような、そんな気がしています、やらせてください」
バオブ「監督さん」
監督「なにかね」
バオブ「おいくつなんですか?」
監督「五十二に今年なります」
バオブ「私は今年、三十九です、百年後、監督は百五十二、私は百三十九です
ね。高齢化社会とはいえ、生きているのはちと厳しい年ですが……やりましょ
う。おもしろいじゃないですか」
ギンベル「目の前に台本があって自分の名前が刷られている、やれということ
ですよ、やってみろっていうことだと、僕は思います。やりますよ、僕も、こ
こにいるみなさんと、できるかぎりのことを」
監督「ありがとう、君達の協力に今一度私は神に感謝する。こちらを振り向い
て微笑んでくれた映画の女神にね。さあ、それでは、百年の夢を共に見ること
にいたしましょうか」
各々「よろしくお願いします」
渡辺原「さーあ、みなさん、台本を開いて、一ページ目からですよ」
監督「台本一ページ目、メインタイトル『ドードーの旗のもとに 少年よ 千
夜一夜の夜が明ける」
渡辺原「シーン1、アルカイエ王国・全景にナレーション『オープニング』で
す」
監督「この物語は遠い南、四つの島からなる平和な王国アルカイエ、その宮殿
の中より始まる。その日、王子である本編の主人公ボンパ・アルカイエ、御年
九つの誕生日。
 王宮の応接の間において、近隣諸国から招かれた大使や官僚などに見事な料
理が振る舞われている。客人達は口々にこの王宮の料理長ギンベルの仕事を褒
め称えた。
 いわく、
「今まで味わったことのない、七色の味だ」
「口の中にどこまでも広がっていく肉汁の香りがたまらない」
「アルカイエ王がほとほとうらやましい、これほど優秀なコックを厨房に抱え
ていられるなんて」
 アルカイエ国王の自慢のコック、料理長ギンベルが居並ぶ来賓に対して挨拶
をする」

ギンベル「本日、召し上がっていただいております料理は、私が一人で作った
物ではございません。厨房にいる私の信頼のおけるスタッフ達の、義務を越え
た協力があってこその料理です。今、みなさまからいただいた称賛のお言葉、
これからすぐに厨房に戻って、皆に伝えたいと思います」
監督「ギンベルは一礼し、厨房へと戻ろうとする、だが、「お待ちなさい、料
理長!」ある国の王がギンベルの足を止めた。
「どうかね、アルカイエの優秀な料理長。来月、我が王妃の誕生日がある。是
非、最上級のディナーを頼めないものか」
 他の王がそれに乗じて言った。
「誕生日なら、わが国の王女の誕生日も近い、どうか我が国にも」
ギンベル「皆々様の身に余るありがたき、お言葉の数々ではございますが、私
はこのアルカイエの王宮の厨房の料理長でございます。この厨房を一時たりと
も離れるわけにはまいりません」
渡辺原「一方、厨房の外では一番下っ端の皿洗いのムケルシがデザートの皿を
運ぼうとする給仕長を呼び止めた」
ムケルシ「それ、ボンパ王子のデザートのお皿ですね、このオレンジの小さな
チェリーを添えてください」
監督「その給仕長、晩餐の間にて、うやうやしく、王子ボンパの目の前にチェ
リーの載ったデザートの皿を差し出す。それを見つけた瞬間、王子ボンパの表
情はぱっと明るくなった」
ボンパ「オレンジのチェリー、オレンジのチェリーだ!」
監督「すぐに襟元に差し込んでいたナプキンを引き抜くボンパ」
ボンパ「ちょっと、失礼!」
監督「ボンパ王子は席を立ち部屋から飛び出す。ひと気のない廊下をボンパは
駆け抜けていく。広い廊下の大きな窓、その遠く、庭の果て、高い城壁の向こ
うに、小さな赤い火が幾つも時折、飛び交う。これが、今、街の中で起きてい
るクーデターの砲火であることなど知るよしもなく……」
渡辺原「アルカイエ王のすぐ側に座る、本日の最も重要な客人ドダケル官房長
官が言った」
ドダケル「このアルカイエ王国には、ドードー鳥という珍しい鳥がいるそうで
すね、すでにこの地上から絶滅し生き残っていないと言われている鳥が」
監督「(アルカイエ王として)それが、生きて見つかったんです、しかも、七
羽も。一番南の島でパイナップル農家を営む老夫婦が見つけ献上してくれたの
です、それ以来、息子のボンパはとても大切に世話をしております。今ではみ
んなまるまると大きくなって」
渡辺原「そのドードーの鳥小屋へ向かうボンパ。その世にも珍しい生き物ドー
ドー鳥の飼育小屋は厨房の裏にある。昔、鶏小屋として使われていたそこに駆
け込んだボンパはすぐに、今にもその殻を破って孵化しそうな大きな卵をそっ
と両手で掬うようにして抱え上げた」
ボンパ「動いてる。生まれるんだもうすぐ……」

  再び、晩餐の間。

ドダケル「それほど貴重なドードー鳥とやら、願わくば、一度、この目で見て
みたいものですな……とは言っても、まあ、そんな時間が残されていれば、の
話ですが」
渡辺原「ドダケルの官房長官は、おもむろに懐から懐中時計を取り出した、時
計の長針、そして、秒針がちょうどてっぺんを指すのを確認して、にたりと笑
った。その時、遠くで、銃声が一発。さらに二発、三発。さらに機関銃の音が
混じり、対空砲火の音もまた、ずどーんと、遠くの空で鳴り響いた」
監督「その音に、誕生パーティの席についた客人達もまた、何事だ? 何が起
きてるんだ? と騒然となる。そんなざわつく皆の中で一人、悠然としている
ドダケルの官房長官がこの時を待ち望んでいたとばかりに言った」
ドダケル「みなさん、お静かに。驚くことではございません、来るべき時が来
たというわけです。たった今、この国アルカイエにクーデターが起こったんで
す。アルカイエ国王殿、あなたはもはや国王ではない」

ドードーの小屋。

渡辺原「ドードーの鳥小屋の中。ボンパの手の中、ドードー鳥の卵が割れ嘴の
先が見えた、コツコツ、とさらにそのひび割れは大きくなっていく」
ボンパ「ドードー、がんばれ、出ておいでこの世界に、ドードーの雛が、今新
しく、生まれる!」
渡辺原「雛のつぶらな瞳はまだ濡れていて、はたして、見えているかどうかわ
からないような目でボンパを見上げた」
ボンパ「こんにちわ……いや、こんばんわかな、初めまして、僕はボンパ、ボ
ンパ・アルカイエ。この国の王子だ。どうかよろしくね、君と僕これからずっ
と一緒だからね……」
監督「その時だった」

  ドードー鳥の小屋の外から、

ムケルシ「王子! ボンパ王子!」

  そのムケルシの声よりもさらに大きな声、ほとんどそれは叫び声にも近
く。

ギンベル「ボンパ王子、どちらに!」
ボンパ「どうしたの、ギンベル」
ギンベル「王子、こちらへ、声を立てずに。急いで厨房の方へ」
監督「ギンベルは卵を抱えたボンパの背を押して急がせる」
ギンベル「王子、そのまま厨房の奧、冷蔵庫の中へ」
監督「冷蔵庫の中に入ったとたん、ボンパの吐く息は白くなった。だが、ギン
ベルはさらに冷蔵庫のさらに冷たい奧へとボンパの手を強く引いて進んでい
く」
ギンベル「ここです、この柱の中が小さなエレベーターになっています」
ボンパ「この小さな箱が?」
ギンベル「体を丸めて早くこの中へ。ムケルシ!」
ムケルシ「はい!」
ギンベル「そっちにある、緑と黒の細いロープを合図したら、思いっきり引
け」
ムケルシ「は、はい」
ギンベル「いいですか、これで王子を上にあげます」
ボンパ「上? 上にはなにがあるの?」
ギンベル「この宮殿の天井裏です、ムケルシ、上げろ」
ムケルシ「は、はい」
監督「すぐに音もなくボンパを乗せたエレベーターの上昇が始まる、そして屋
根裏の部屋に付くと、ゆっくりとドアは開き、ボンパは、そこからのそのそと
這い出した」
ボンパ「なんだ、ここは?」
ギンベル「(伝声管)王子、ボンパ王子、聞こえますか」
ボンパ「ギンベル、どこから声が?」
ギンベル「その部屋のどこかに、下の厨房と通じる伝声管があるはずです」
ボンパ「伝声管? これか(と、話しかける声)もしもし」
ギンベル「王子、落ち着いて良く聞いてください。なに事か、宮殿の方で起き
たようです」
ボンパ「なに事かって、なにが?」
ギンベル「わかりません。とにかく王子はそこに身を潜めていてください」
ボンパ「…屋根裏に、こんな所があったなんて」
ギンベル「このアルカイエの王宮に人が暮らせるだけの屋根裏部屋があること
は限られた人間しか知りません。王子のおじいさま、三代前の国王がこの王宮
を建てる時、密かに作ったものなのです」
ボンパ「どうして? そんなことを?」
ギンベル「ここに匿わなければならないお方がいらっしゃったんです
ボンパ「誰を?」
ギンベル「海を越えた北の果てにある一党独裁の軍事国マレイヤ、その収容所
から逃れてきた亡命作家、ポール・ボロンコ氏です」
ボンパ「その人はずっとここにいたの?」
ギンベル「そうです。そこで北の国の収容所からの脱出劇を長い長い小説にし
て出版、国際文学賞を見事受賞されました」
ボンパ「ギンベルはなぜそれを知っているの」
ギンベル「この厨房を任される者は、万が一の時のためにこの部屋を使うよう
命じられているのです」
ボンパ「万が一の時?」
ギンベル「今のような時のことです」
渡辺原「屋根裏は階下の王宮とまったく同じ広さを持っていて、王宮のどの部
屋の上にも行くことができた。と、階下から盛大なファンファーレ」
監督「さっきまでボンパの誕生パーティが行われていた晩餐の間、鳴り響くフ
ァンファーレ。それが止むとすでに王のみがかぶることが許されている、けば
けばしい羽のついた帽子に引きずるような深紅のマントを羽織ったこのクーデ
ターの首謀者フィー・カッサブが現れ、騒然とする皆を一喝する声を響かせ
た」
カッサブ「みなさま、突然の出来事にさぞや驚かれたことでしょう。静粛に、
ただし笑顔を忘れずに、前国王の王子、ボンパ・アルカイエ君の誕生パーティ
は皆様、お楽しみいただけたかな。だが、それもここまで、ただ今より、この
国の新しい王の就任パーティに移らせていただく。たった今、この国はアルカ
イエ王国という名を捨て、カッサブ王国と呼び称されることとなる」
渡辺原「厨房に駆け込んでくるギンベルの部下、若き男ロツボル」
ロツボル「料理長!」
ギンベル「どうした」
ロツボル「クーデターの主は前アルカイエ軍将校、フィー・カッサブ。今、ア
ルカイエ国王と王妃が……射殺!」
ボンパ・ギンベル「射殺?!」
ロツボル「執事、世話役を含め、関係者も皆、射殺の上、トラックに山積み
に」

晩餐の間。

カッサブ「皆様、このパーティ会場の窓の外をご覧あれ、庭で燃上がっている
のは、この国の旗、さあ、お手元のシャンパンのグラスを前に、そして、新た
なる指導者、私、フィー・カッサブの杯を飲み干してくれたまえ」
ドダケル「新たなる国王、フィー・カッサブ国王に栄光あれ!」
カッサブ「新たなる王国の門出を祝して!」
ドダケル「楽隊はどうした、盛大な曲を高らかに奏でよ! カッサブ王国が
今、ここに誕生したのだぞ」

厨房。

ハルビービ「ギンベル料理長、王と王妃が、さっき」
ギンベル「今、聞いた」
ハルビービ「そして、新しい国王が、ギンベル、あなたを、この王宮の料理長
を呼べと」
ギンベル「私をご指名か、ということは俺も王と王妃達の後を追うことになる
かもな」
ハルビービ「そんな」
ギンベル「行って来る……いや、もうこれで、行ったままかもしれないな」

  ギンベルが去るやいなや。

ムケルシ「王子、ムケルシです、伝声管は聞こえますか」
ボンパ「ムケルシ、聞こえるよ」
ムケルシ「ドードーは、ドードーの卵はどうしました?」
ボンパ「さっき雛が生まれた、一緒にここに上がってきてる」
ムケルシ「生まれましたか、無事に」
ボンパ「うん、そうだね……ドードーは無事に生まれた。でも、そのかわり
に、僕のお父さんとお母さんが……さっき殺されてしまった!」

監督「『ドードーの旗のもとに』この長い長い物語が、今、これより始まる。
希望を生む悲劇が今、これより始まる」

渡辺原「まず、最初のエピソード『料理 千夜一夜』。アルカイエ国王が座っ
ていた玉座に今はカッサブが悠々と座っている、その前でギンベルが深々と一
礼した」
カッサブ「初めましてかな、料理長、ピーター・ギンベル」
ギンベル「いえ、カッサブ様。将校でいらした時代に一度、ディナーをお出し
した時に、お褒めのお言葉をちょうだいしたことがございます」
カッサブ「素晴らしい。料理だけではない、物覚えもいい」
ギンベル「料理は物覚えです、一度、舐めた味を忘れない、それがいい料理人
の資格の一つですから」
カッサブ「その良い料理人に新しい国の王として一つ頼みがある。おまえにこ
れから夜毎、料理を作ってもらいたい、その料理がうまければ、次の日もまた
料理を作ることを許す」
ギンベル「どういうことですか?」
カッサブ「わからんか? まずい料理を私のディナーのテーブルに並べたりし
たら、次の朝アルカイエ王とその側近達が積まれたトラックに同じように山積
みにする。厨房のおまえのかわいい部下達も全員揃ってな」
ギンベル「お待ち下さい、私の料理がお気に召さなかったとしたら、それは、
私一人の責任です、私の命は御自由になさればいい、だが、私の厨房の仲間達
は私の言われるままに作っているだけで……そのような仕打ちはいかがなもの
かと」
カッサブ「人は脅しておくに限る。そもそも、私は普段から、人間という奴を
信頼しない、裏切るのは当たり前。人は自分の身が一番、自分のためになら喜
んで他人を犠牲にする。なぜならば、私がまず、そうだからだ。だが、まずい
料理を出したりすれば、おまえらの命はない、この約束だけは、裏切り者の私
とて、裏切ることはない、神に誓ってね」
ギンベル「承知いたしました」
カッサブ「さすがだ、ものわかりもいい。泣き叫び許しを乞うこともない、見
込んだだけのことはある、ただの料理人達ではないな」
ギンベル「私と私の厨房の料理人達は、ただではすみませんよ、国王陛下」

渡辺原「カッサブの息子『シロン王子』が王宮へ」

監督「このアルカイエの島では珍しい逆ハンドルの輸入車が一台、王宮の正門
をとがめなく通過、その後席、窓の外を見ているボンパと同じ年の九歳の新し
き王の子シロン。その横に座る若き王妃ヴァネッサ」
渡辺原「彼女はシロンの母亡き後、カッサブと再婚したカッサブの後妻」
ヴァネッサ「シロン、ごらんなさい、これが今日から、私達の王宮よ」
渡辺原「車から降り、付き添いのガードと共に正面玄関からシロンとヴァネッ
サは堂々と中へ。すぐに二人の目に入ってくる、逃げまどう使用人達を後から
撃ち殺しているカッサブ軍の兵士達の姿、そして命乞いの声、情け容赦ない銃
の連射の音」
ヴァネッサ「まだちょっと着くのが早かったかもしれないわね。シロン君には
刺激が強すぎるかも。まだ粛清の最中だわ」
シロン「粛清?」
ヴァネッサ「害虫のお掃除って意味よ」

屋根裏。

監督「屋根裏の部屋を見て歩くドードーの雛を抱えたボンパ」
ボンパ「この部屋は書斎だ」
監督「机の上に広げられたノート、手作りの茶色の皮の表紙にDIARY。
『私はこの天井裏に命からがら辿り着いた。北の国の収容所で暮らしたあの日
々に比べれば、ここは本当に天国だ。三度三度の食事は厨房から上がってく
る。不自由は何もない。だが、ここは不自由がないと同時に自由もない。ここ
で私が見つけた楽しみといえば階下の王宮の人々の暮らしを覗き見ることくら
いだ』
 亡命作家は厨房のスプーンを使い、床に穴を開けていった。それが天井裏の
床にダチョウの卵くらいの大きさの穴になり、やがて蟻地獄のように階下の天
井に届く頃には、片目でようやく覗ける程度の小さな穴に。そこに、透明度の
高いガラス磨きあげた魚眼レンズをそこにはめ込むと、部屋全体を見回すこと
が出来る。亡命作家はまず王妃の部屋の天井に穴を開け、ひたすら階下の様子
を覗き見ていたのだった」
渡辺原「そして、ボンパもちょうど、かつての自分の子供部屋の真上に開けら
れた穴を見つけ覗き見た」
監督「世界中のおもちゃが集められた元ボンパの部屋。そこに足を踏み入れた
少年、シロン王子、後に続く世話役であるビスハラの姿」
シロン「ここがこれから僕の部屋か」
ビスハラ「お気に召さないおもちゃはどんどん捨てて、今日からここはシロン
王子の部屋なのですから」
渡辺原「シロンはボンパの大切なおもちゃを容赦なく投げ捨てていく、次々
と」
ボンパ「なんてことをするんだ……それは、僕の大切な物なんだぞ!」
ムケルシ「ボンパ王子、ボンパ王子、聞こえますか」
ボンパ「もしもし、ムケルシかい?」
ムケルシ「王子、どうですか? ドードーの雛は生まれた直後に、たっぷり水
を飲ませてあげてくださいね」
ボンパ「うん、ムケルシ。僕もドードーも大丈夫だ、それで、下の様子は?」
ムケルシ「私達明日から『料理の千夜一夜』が始まるそうです」
ボンパ「それは、なに?」
ムケルシ「夜毎の晩餐で、おいしいディナーを出すことが出来なかったら、次
の日の朝、私たちは皆殺しにされてしまうと」

渡辺原「厨房では、ギンベルをはじめとする料理人達が集っていた」
ハルビービ「私はパティシエとして生きることを選んで今日ここにいるんで
す、作れと言われれば作りますよ、それこそ寿命が尽きるまで永遠に」
バオブ「その寿命が尽きる日ってのは、いつのことだ?」
ハルビービ「んなことはわからないわよ。自分の寿命のことを知っている人間
なんてこの世にはいないわけでしょ」
バオブ「そんな話をしてるんじゃない」
ギンベル「まあ、聞いてくれ。朝と昼のメニューは毎日同じで変えるな、とい
うことだ。ただし、夜の料理に関してはさっき言った通り」
バオブ「夜毎違う料理を」
ロツボル「しかも、新しい王様となったあの男の舌を満足させるものを作れ
と」
バオブ「でないと、俺達の命はない、ですよね」
ギンベル「その通りだ」
ハルビービ「ちなみに変えてはならない朝食と昼食のメニューってのは何なん
ですか?」
ギンベル「朝はトーストにバター、それにカリカリに焼いたベーコン、スクラ
ンブルエッグ、あとはコーヒー。昼はおかゆに何種類かのトッピングを用意し
ろと」
ハルビービ「当たり前の食事でいいってことか」
ギンベル「だから、そのぶん……」
バオブ「夜毎違う世にも珍しい創作料理を全力で作れと」
ハルビービ「受けて立ちますよね、料理長」
ロツボル「やってやろうじゃないですか、料理長」
バオブ「だいたいそれってのは、考えようによっちゃ、料理人が最も望む最高
の環境じゃありませんか。なにも我々に限ったことじゃない。まずい料理を作
ったら明日がないのは世界中の全ての料理人が同じでしょう。これが星が付く
レストランのコックだとしてもそこで、お出ししたものをお客様がこんなもの
が食えるかと、テーブルを立つようなことがあれば、その料理人はすぐさまエ
プロンをはずし、包丁を置いて厨房から出て行くべきでしょう」
ハルビービ「その通り、本来は料理人は一皿一皿に命がけ、それでいいと私も
思う」
バオブ「よく料理長が言っているじゃないですか、料理はたとえるなら戦争
だ。厨房は戦場、なんてうまいんだ、もう腹一杯だ、これ以上は降参だ、とい
う白旗をお客様にあげさせるのが料理人の勝利の時だと」
ギンベル「それは……そうかもしれない」
ハルビービ「そうですよ」
ロツボル「そうですとも」
ギンベル「だがな、みんな……」
ハルビービ「なんですか、料理長」
ギンベル「俺は……もう料理で人をもう殺したくないんだ」
バオブ「料理で人を殺したくない?」
ロツボル「どういうことですか」
ムケルシ「料理長?」
ギンベル「初めて話す話かもな。私は七人兄弟の長男だ。父は戦争にとられ、
母は生まれつき足が悪く長い間、台所に立つことができなかった、当然、金も
なく、市場が終わりかける頃に行っては、半分腐っていたり、変な形の売り物
にならない野菜や果物をただ同然で譲ってもらっては、それを私が調理した。
それが、私の料理人としての人生の始まりだった。だが、腐りかけのものや人
が口にしてはいけないモノがどんなもので、どう味付けすればいいのか、何も
知らなかった。レパートリーとて限られている。空腹なのに食べ物が喉を通ら
ない弟。どうしたら旨い料理を作ることができるんだろうか、その方法を教え
て欲しいと、私はキッチンで跪いて、泣きながら祈ったこともあった。だが、
弟は食べては吐き、やがて栄養失調で亡くなった。もう一人の妹は私が毒キノ
コを見極めることができなかったために、夜中に体が痺れると言って体が黄緑
色に変わって死んだ。私は自分の料理で三番目の弟、一番末の妹を、亡くして
しまった。今、その時の胸に突き刺さった傷が、激しく痛む」
バオブ「またしても、あなたは料理で、ここにいる家族同然の連中の命を……
奪うことになるのではなないかと」
ギンベル「胸の奥底に秘めていた、深い傷がいきなりまた張り裂けた気分だ」
ボンパ「ギンベル、ギンベル、聞こえるかい?」
  と、その伝声管の呼び出し音に反応したのはムケルシ。
ムケルシ「王子、ムケルシです、どうかしましたか?」
ボンパ「話は……聞かせてもらった」
ギンベル「王子、これは……」
ボンパ「これで厨房のみんながいなくなったら僕はここで飢え死にする。けし
て他人事じゃない、だから言わせて。僕にも言う権利はあるでしょ。ギンベル
……あなたはもう料理で二人、大切な人を失っている。でも、だからこそ、こ
れ以上、あなたは料理で人を殺してはいけないんだ。厨房のみんなの命をなん
としても守るべきだ、あなたは全力を尽くして戦うべきだ、その厨房で、鍋と
コンロとオーブンと包丁とありったけの調味料を駆使して戦うべきなんです、
そして、二人の亡くなった兄弟達の無念の気持ちを忘れることがなければ、き
っと何も迷う事なんてないはずです、ちがいますか?」
ギンベル「王子……あなたがお生まれになったことを昨日の事のように覚えて
います、子供だとばかり思っていた。それでもあなたはやはり王になるべき器
の方だ、そのようなお言葉を、今、ちょうだいできて光栄です」
ボンパ「ギンベル」
バオブ「やりましょう、料理長、あなたならできる。いや、あなたにしかこれ
はできないことかもしれない」
ハルビービ「さあ、で、料理長、明日のディナーの献立はいかがいたしましょ
うか」

監督「長い協議が行われた、しかし、明日の料理はギンベルの母の得意料理、
素朴なジャガイモをバターで炒めただけの料理、タマネギしか入っていないス
ープ、など、恐ろしくシンプルな物で勝負することとなった。飾らない自分達
の作る、生まれて最初においしいと感じた味を信じてみよう、と。それが厨房
全員の結論だった」
ハルビービ「いいんじゃないんですか、それが一番だと思います料理長」
バオブ「料理長が初めておいしいと思ったものをまず、お出ししてみる、それ
がシンプルかどうか、手が込んだ物かどうかは別問題でしょう」
ギンベル「間違ってはいないよな、私は」
バオブ「間違ってはいませんよ、私達は」
ハルビービ「お疲れ様です、料理長」
一同「お疲れ様でした」
と、一瞬、間があって、
ボンパ「お疲れ様、ギンベル」
ギンベル「ありがとうございます、王子」
ボンパ「おやすみなさい、ギンベル、大変な一日だったね」
ギンベル「王子こそ……」
渡辺原「そんなボンパの側で、ドードーの雛はもうぐっすりと眠っていた」
監督「生まれたばかりの、ドードー鳥も夢を見るのなら楽しい夢を見ていると
いいなとボンパは思った。激動の一夜目はこうして更けていった」

渡辺原「次の日の朝早くから、まだ王宮への家具の搬入は続いていた。宮殿の
大広間に響くのは執事ビスハラの声」
ビスハラ「丁寧に、丁寧にだ、雑に扱うでない、これは今は亡き王妃の肖像
画、細心の注意を払って運べ! 階段があるぞ、気をつけろ、くれぐれも傷一
つつけるでないぞ」

と、それを見ていたヴァネッサ、

ヴァネッサ「ビスハラ殿、今は亡き王妃の肖像画、いったい王宮の二階のどこ
へお運びに?」
ビスハラ「二階へではございません。亡くなったとはいえ、王妃デシレル・カ
ッサブ王妃あっての、今のカッサブ王国でありまする、これは王宮の玄関を入
った時、まず目にする大きな階段の上の踊り場の壁に、誰もがまず目を引くよ
うに掲げるのです。ここを訪れた者が、王妃のお姿に一礼して宮殿の中へと入
っていただく」
ヴァネッサ「王妃は今となっては私しめでございますよ、それをお忘れか」
ビスハラ「この王宮にある王座の間にカッサブ王がお座りになることができた
のも、すべては、デシレル王妃のお計からいのもと、それを、後からやってき
て王妃の座になんのためらいもなくつかれたヴァネッサ様こそ、偉大なるデシ
レル王妃のご活躍をお忘れではありませぬか」
ヴァネッサ「そのヴァネッサ様という言い方は、願わくばやめていただきたい
ものです。私は、誰はばかることない、この国の王妃なのです。ごらんなさ
い、この指にはまった指輪こそ、カッサブ国王からの賜り物、そなたを王妃と
して認めるというなによりのあかし」
ビスハラ「踊り場の中央に飾るんだ。これぞ王妃の肖像画、少しでも傾むくこ
となど私が許さん。もう少し上手(かみて)をあげろ、あげて、もっと、い
や、あげすぎだ、わずかの傾きとて断じて許さんぞ」

そして、ビスハラその位置に満足したよう。

デシレル「ビスハラ、なかなか良い場所を選んでくれた、感謝するぞ」
ビスハラ「デシレル様、もったいないほどの、ありがたきお言葉」

と、ヴァネッサ。

ヴァネッサ「ビスハラ……未練がましく亡くなった王妃デシレルの肖像画に向
かって話しをしている……王妃の死を受け入れられず、気が触れてしまったと
いうのか」
レリーリ「ヴァネッサ様」
渡辺原「ヴァネッサの付き人にして参謀、レリーリの登場」
レリーリ「死者と話すあのビスハラ、私と同じく呪術を心得ておりますゆえ」
ヴァネッサ「付け焼き刃の呪術が何になる…王宮呪術で七代続いた家系の末裔
のおまえの足下にも及ばぬ」
レリーリ「おそれいります」
ヴァネッサ「だが、レリーリ呪術が使えるおまえにもあの肖像画が話している
声が聞こえるというわけか?」
レリーリ「けして、耳にしたいものではございませんが」
ヴァネッサ「亡き王妃はどんな戯言を?」
レリーリ「ヴァネッサ様の耳に入れる必要などないことです」

デシレル「私は死んだ。死んでしまった。流行の疫病のせいで。このクーデタ
ーのすべてを計画しいざ実行に移すその直前に私の命は尽き果てた。その無念
の気持ちが未だ私をこの世界に引き留めている。我が夫、フィー・カッサブは
国民に対して表向きの国王としての素質はあると私はふんでいるが、その実、
国を国として成り立たせるための、政治、策略、裏工作、含めてあの人は人が
良すぎる。その点に関しては私の方が天賦の才能は持ち合わせています」
ビスハラ「御意に。すべてはデシレル王妃が生前企画立案なさった通りにアル
カイエ王国は転覆、今やこの王宮はカッサブ王のもの、全ては王妃の思惑通
り」
デシレル「しかし、ビスハラ」
ビスハラ「はい、奥様」
デシレル「死んだはずが、こうして、まだこの肖像画の中に留まっている、画
の中から覗き見る世界が私の世界の全て……私はいったい、何になったという
のか。しかも、私の命尽きた後、カッサブは若い女の色香にまよい、あの位と
てそう高い家柄の娘でもないヴァネッサを王妃として迎えた」
ビスハラ「私は、王妃などとは認めてはおりませんが」
デシレル「だがビスハラ、世の人々はあれを王妃と呼び、それ相当の扱いをす
ることだ」
ビスハラ「心苦しく思います」
デシレル「あんな小娘ごときになにができる。むしろ、未だ行方のわからぬこ
の国の王子、ボンパ・アルカイエはいずこへ。なぜ、今もって居場所がわから
ん。国外に逃亡する時間が、あの誕生パーティの最中にあったとは思えぬ」
ビスハラ「今、総力をあげて捜索してはおりますが」
デシレル「急がせろ、事が長引いて良いことなど一つもない。もう一つ、シロ
ンの家庭教師の手配も進めているな」
ビスハラ「それはもちろん、非常に良い人材が集まりつつあります、今しばら
く猶予の程を」
デシレル「シロンは甘やかしすぎた。あの子は十六の戴冠式をもってすぐに王
位を継承させる、あのなまけぐせが体に染みついている子に王としての自覚を
叩き込んでくれる人材を探し出すんだ」
ビスハラ「必ずやご期待に添える人物を探してご覧にいれます。少々荒っぽい
やり方の家庭教師となるやもしれませんが」
デシレル「構わん。むしろ私はそれをなにより望んでいる」

天井裏。

渡辺原「天井裏において余りある時間を使い、二人きりのボンパとドードーは
やがて、言葉を交わすようになっていく。『ドードーとの会話』」
ボンパ「ドードー……君の言う「ドードー」いうのは、一つの音じゃないんだ
ね」
ドードー「ドードー(これはまったく今までと同じで構わない、気がついてい
るのは、ボンパだけでいい)」
ボンパ「なんとなく、だけど、わかるよ、ちょっとづつ、その「ドードー」っ
て音と、首の角度、しっぽっていうか後の羽の動かし方で、意味が違うんだ
ね、いろんな動きの組み合わせと声の出し方でなにを言っているのか、だんだ
んわかってきたよ」
ドードー「ドードー、ドードー」
ボンパ「うん、うん、うーん、わかることはわかるんだけど、僕はどうすれば
いいかな、あのね、ドードー、ボクはボンパっていうんだ、そして、ここは王
宮の屋根裏、僕たちは隠れて暮らしている。うわ、一気に難しくなるな、えっ
と「王宮」だろ「屋根裏」だろ「隠れて」だろ「暮らしている」だろ、え、そ
んなのどうやって説明すりゃいいんだ」
ドードー「ドードー、ドードー」
ボンパ「ドードー、ドードー」
ドードー「ドードー、ドードー、ボーンドーパ」
ボンパ「え?」
ドードー「ボ・・ンドーパ」
ボンパ「(歓喜)ドードー! わかるのかい、僕の言葉が!」

  シロンの部屋。

渡辺原「やがてやってくるシロンの家庭教師。ジュード見参」
ジュード「シロン王子、初めまして、家庭教師を仰せつかりましたジュードと
申します」
渡辺原「ジュードの教育方法は徹底していた」
ジュード「習ったことはその場で覚えるでなければ、次は容赦なく鞭を手の甲
に打ち下ろします」
シロン「なんだって? 僕はこの国の王子だぞ」
ジュード「まだ話は終わっていません。本は大きな声で読むこと、そうすれ
ば、発音の間違いも、長い文章を読むための息継ぎの方法も自然と身について
くる。あなたはやがてマスメディアで、時には数千、数万人に向かって演説し
なければならないお方です。必要なのは大きな声、意志を持った言葉がよどみ
なく出てくることです。私はこれからカッサブ国という国を背負って立つ次な
る国王を育てるためにここに雇われてやってきたのですから」

天井裏。

監督「その真上の部屋。屋根裏にいるボンパは家庭教師が教えるまま、シロン
以上に勉強をした。時間はあるのだ。屋根裏でボンパは、山なす本を少しづつ
読んでいけるようになった」
渡辺原「そして、日に日にドードーの言葉もまた理解できるようになっていっ
たボンパ。なにしろ、日中は二人きり、いや、一人と一羽だけでずっと暮らし
ているのだから」
ドードー「僕たちはいつになったら、外の世界に出ることができるの?」
ボンパ「わからない、でも、いつかは、きっとここから出ていける」
ドードー「ボンパはいつかっていうのが、いつのことなのか知ってるの?」
ボンパ「(独り言)その「いつか」ってのを誰よりも一番知りたいのは僕自身
だ」
ドードー「でもいいんだよ、ボンパ。僕は、いきなり明日出発だよって、前の
日の夜に言われたって大丈夫だからね。いつでもここから出ていく心の準備は
できているからね」

監督「本棚に並ぶ分厚い本。背表紙に『地上から消えた絶滅動物図鑑』と書か
れている。ボンパは手に取ってめくっていく」
渡辺原「それを一緒に覗き込むドードー。マンモスや洞窟ライオンという名前
も聞いたことのない生き物達」
ドードー「このとっても大きな動物、マンモスってのはどこに住んでいるの?
 外に出れば会うことはできるの?」
ボンパ「会えないよ、マンモスには」
ドードー「どうして?」
ボンパ「いないんだよ、もう」
ドードー「・・どういうこと?」
ボンパ「この地上にはマンモスっていう動物はもういない。動物が一匹もいな
くなってしまうことを『絶滅』って言うんだ。これは絶滅した動物が書かれて
いる本なんだ」
ドードー「絶滅? いなくなる、待って、ボンパ、この本には僕が載ってる
よ、ほら、『ドードー鳥』って。絶滅? 嘘だよね、僕は生きている、裏庭に
だって、七羽のドードー鳥がいる、立派にこの地上に生きているんだよ、僕達
は、絶滅なんかしてない、生きてるんだ僕達はここにも、この庭にも、いるん
だよ、なのに、どうして絶滅したなんて僕達のことを言うの?」

ギンベル「お呼びですか、国王陛下。料理長のギンベルです」
カッサブ「裏庭に珍しい鳥がいるな」
ギンベル「はい、ドードー鳥という絶滅種の鳥がおります、この7羽が地上に
残された最後のこの種の鳥では、と」
カッサブ「それはそれは、貴重な鳥だ。是非、食べてみたいものだな」
ギンベル「ドードー鳥を…食べる」
カッサブ「どんな味がするものかな。まったくもって想像もつかない、そのぶ
ん期待もより大きくなるというものではないか、料理長」
ギンベル「それは……」
カッサブ「そもそも食い荒らされて絶滅したそうではないか、きっとうまいに
決まっている。肉汁はどんな味だ。想像しただけでいてもたってもいられなく
なる」
ギンベル「レシピがございませんので、少々お時間をいただくことになるか
と」
カッサブ「三日やろう。その日こそ、我がカッサブ国の建国一周年の時だ。ボ
ンパ王子の誕生パーティとは比較にならない盛大な宴の話は聞いているな。見
ろ、今宵の月を、丸に欠けるあの月は十三夜。三日後の十六夜の夜に、私は地
上で最後の鳥の肉をパーティの席上で堪能させてもらう。よいな」
ギンベル「……御意に」

  厨房。

渡部原「厨房に戻るギンベルを囲んだキッチンのメンバー達」
ムケルシ「ドードーを食べる? だってあれは……」
ギンベル「作らなければ、俺達の命はない」
ムケルシ「ドードーを食べちゃダメだ、ダメですよね、料理長。あいつらの命
を奪うなんて悪い冗談ですよね、ねえ、料理長」
ギンベル「ムケルシ……なにもこれはドードーに限ったことじゃない、人は生
きるために、なにかの命を奪って、それと引き換えに生きているんだ」
ハルビービ「食べる前に、いただきますというのは、あなたの命をいただきま
す、ということなのよね」
バオブ「食べられるものはなんでも食べる、そうしなければ生きていけない。
だからこそ、おいしくいただく。それが、命を奪う代わりにできるたった一つ
のことだ。料理長、私がドードーの小屋へ行きます。7羽のドードー、みんな
つぶすんですね」
ギンベル「頼む」
ムケルシ「みんな……全部…」
ギンベル「一羽残らず、みんな皿に載せる。それが我々の仕事なんだ、ムケル
シ、七羽みんな、いただきます、ということなんだよ」
監督「こうして、世にも珍しいドードー鳥の料理にギンベルの厨房のチームは
とりかかることとなった」
ギンベル「ムケルシ」
ムケルシ「なんでしょう、料理長」
ギンベル「おまえは外にいろ。皿洗いの時間になったら、呼ぶ」
監督「そう言われたムケルシは厨房の裏口を出た、頭の上の方で回っている大
きな三つの換気扇からあふれ出る油の混じった煙。壁一枚隔てた厨房で、みな
がいつものように働いている声が聞こえる」
ギンベル「海草からとれる塩は?」
バオブ「今、ここに」
ハルビービ「膵臓をトマトで煮込むのは?」
ギンベル「三分半」
ハルビービ「了解!」
ロツボル「フランスパンにガーリックは」
ギンベル「まだ早いだろ、いつもおまえは焦りすぎなんだよ」
ロツボル「すいません、ワインにつけたササミあげました」
ギンベル「こっちにおけ、スパイスの臭いを移すな!」
バオブ「もも肉、良い感じで焦げ目がつきました」
ギンベル「よーし上出来だ。前菜をお出ししていいと伝えろ」
監督「いつもの風景、いつもの仕事。だが、一つだけ違うのは、皿の上に並ぶ
のが、あのドードー達であるということだった」
ムケルシ「人が鳥を食べる、今日はたまたま、それがあのドードー鳥たちであ
るというだけだ。でも、絶滅してしまうまで食べ尽くされちゃった動物なんだ
から、最後に残った奴らだけでも、生かしてやってもいいんじゃないか。なぜ
殺す。なぜこの世界から、絶滅させてしまう? なぜ、人は動物を食べ尽くし
てしまうんだ」
渡辺原「やがて料理が終わり、皿が戻ってきた」
ロツボル「皿が返ってきました、ソースの一滴までなにも残っていません」
バオブ「あたりまえだ」
ハルビービ「この地上で出せる最後の料理を一口でも残されたらたまんないわ
よ!」
ムケルシ「料理長、皿、洗ってもいいですか」
ギンベル「頼む」
監督「ムケルシの手の中の白い洗剤の泡とともに、ドードーの跡形とも言え
る、油の後が、排水溝へと流れ込んでいった。こんな形でドードー達と別れる
ことになるなんて。かつて、優しい眼差しで眺め、いつくしみ、餌を与えた、
ドードーが料理された皿を、ムケルシは次々と洗いぴかぴかに磨き上げ、料理
は終わった」

渡辺原「さて今晩の料理はどうしようか、そして、明日、明後日の料理のため
の仕込みはどうしようかと頭を悩ませているギンベル達。家庭教師のジュード
がとある屋敷の死角となっている場所で、出会う」
ジュード「自分は前の王アルカイエに遣える反乱軍の者だ」
ギンベル「そんな男が、よくシロン王子の家庭教師になれたもんだな」
ジュード「行方知れずのボンパ王子は、反乱軍が連れ去り、反撃の時を伺って
いると思われているが、反乱軍を率いるクローウェルの元にボンパ王子はいな
い」
ギンベル「どうして、そんな話を俺にする?」
ジュード「おまえだけが今も、前の王子に忠誠を誓い、そして、ボンパ王子の
消息を知っている可能性のある唯一の人物だと私は思っているからだ」
ギンベル「知らないね」
渡辺原「そっけない返事をしてその場を立ち去ろうとするギンベルのその背に
言う」
ジュード「私がどんな思いで、この新しい王子の家庭教師の役目を掴んだの
か、そして、毎日をどんな思いで過ごしていると思っているのか、頼む、王子
の居場所を、いや、生きていらっしゃるのかどうかだけでも教えてくれ」
ギンベル「おまえが信じられる時がきたら、知ってることを話してやってもい
い」
ジュード「今、話せ」
ギンベル「殺されても話せないよ、今はね。ここまで話したことだって、充
分、勇気があって、あんたを信頼していると受け取ってもらいたいものだけど
な」

 天井裏

監督「天井裏に隠れて二年が経とうとしていたある日、ボンパはついに亡命作
家の小説を手に取ったのだった」
ボンパ「サイグルール国際文学大賞受賞作『おそれを知らぬ陽気なヤギが一頭
の痩せたロバを救い、痩せたロバ、世界を救う』」
監督「そして、これより話は天井裏に潜むボンパが読む『北の国の収容所編』
へ。表紙をめくった本の最初のページにこの一文」
ボンパ・ボロンコ「今もきっとどこかで生きていると信じている、オーウェン
に捧ぐ」
ボンパ「北の国の収容所。石油がないために石炭を満載したトロッコを人力で
押す。十二万人といわれている人間が収容されている北の果ての炭坑の側のバ
ラックで寝泊まりする人々、昼でも気温は三度から七度。その中での食料の横
領、仲間同士の物の略奪、そんなものは日常茶飯事。ここに入れられた者は労
働として炭坑のトロッコを押すことを強制される、油よりも人間の労働力がこ
こでは安いのだ。そんな中で酷使されぼろぼろの雑巾のような生き物の群れ」
ボンパ・ボロンコ「だが、休憩時間になると人々は我先にと外に飛び出して行
って、草を抜き土をはらいながら、そのまま生でかじりつき、木の皮をはぎ虫
をとって食べる、さらに小川に行き水を飲むことによって空腹を満たす」
ボロンコ「しかし、その水は工業用排水が混じっているもので、ひどい下痢に
みまわれて、それでも働かされるために、糞尿の臭いが炭坑の坑道には満ちあ
ふれている。鼻の下にハーブのような葉をすりつぶして塗ると、その糞尿の臭
いを緩和することができるということを教えてくれたのもオーウェンだった。
オーウェン、いったい奴は何者だったんだ? 北の国の収容所では誰もが鬼の
ような看守に命令されれば黙ってうつむいて黙々としたがうだけなのに、オー
ウェンの奴ときたら、看守の目を盗んでは、ベロを出してこっちを見ては余裕
のあるフリをして見せ、看守の歩き方を大げさに真似る。そして、いつもやり
過ぎて見つかり、こっぴどく樫の棒で殴られて、我々の房に戻ってきた時に
は、二本足では立っていられず、這うようにして四つん這いで入ってきて口に
した言葉がこれだった」
オーウェン「いや、なんでもない、なんでもないんだ、今はちょっと動物の気
分でね、四つ足で歩きたいからこうしてるだけなんだ」
ボロンコ「そう言ってこちらを向いて笑いかけた彼の顔は、いつもの倍にあち
こちが腫れ上がっていた」
オーウェン「寒い? そりゃ寒いさ、ここは北の国の収容所だ、寒くないと言
ったら嘘になる、でも、寒いのは手足の先だけで、心は暖かだからな」
ボロンコ「こんなところにぶち込まれて、なんで心が暖かでいられるだよ、本
当にバカだな、おまえは」
オーウェン「はーい、バカでーす、バカじゃない人達が凍えて縮こまっていま
ーす。バカな俺はのんびりしてゆっくりと良い夢を見て眠りまーす」
ボロンコ「眠れるわけねえだろ! 凍傷で指がかちかちで、夜明けが特に痛く
てたまらねえってのに」
オーウェン「ははははは、凍傷なら俺も、ほら、この前、鬼のような看守殿の
命令で、冷たい雪の中、一人で三時間立たされて、ひどいもんだぜ、この足、
見てみろ」
ボロンコ「確かに、オーウェンの足の指は誰の指よりも凍傷がひどかった。
(と、オーウェンに語りかける)おまえのこんな足でよく歩いてられるな。痛
みはないのか?」
オーウェン「痛いさ、だけど、痛みがあるうちはまだ生きてるんだ、痛みがな
くなったら、死んでるってこったろ、な、違うかい」
ボロンコ「一事が万事この調子だった。例えば炭坑の中での労働の時だってそ
うだった」

監督「炭坑の中。必死に六人ぐらいでトロッコを人力で押しているボロンコ
達。ちょうどトロッコは坂道にさしかかり、押せども押せどもズルッ、ズル
ッ! と、足下が滑りちっとも力が入らない」
ボロンコ「う、うぐっ」
オーウェン「どうした、ボロンコ先生、もっと足下を踏ん張って、石炭一杯の
トロッコなんだ力一杯押し上げてくれなきゃ、こっちばっかり重さが掛かっ
て、出口に向かうどころか、このままじゃ下の採掘場に逆戻りになっちまう
よ」
ボロンコ「やっているよ、やっているけど、力が……入らないんだ」
渡辺原「そんなボロンコに情け容赦ない看守の鞭が振り下ろされる」
ボロンコ「あうっ!」
渡辺原「鞭はさらに二発、三発と続くのが常だった」
ボロンコ「ああっ! あああっ!」
オーウェン「看守さん、後生だ、ボロンコ先生は彼なりに頑張っているんです
よこれでも、トロッコが昇らないなら、俺を鞭打ってくださいよ、俺に鞭をく
れたら、よーしがんばるぞ、って逆にやる気になっちゃう人間ですから、お願
いしますよ、俺に鞭をお願いしますよ」
渡辺原「バカにされたと思った看守はいつもより力強くオーウェンに向かい鞭
を二、三発と立て続けに振るう」
オーウェン「あうっ! 背中から鞭が首筋をまわって、痛い痛い」
渡辺原「鞭の嵐は止まらない」
オーウェン「ああ、腹に長い鞭がまとわりついて、胃のあたりをひどく打つ、
くううう、効きますね、一本鞭は」
ボンパ「トロッコに挟まれた事故が起きたのはその時だった」
渡辺原「上り坂のトロッコが下り始めた。ブレーキ重量オーバーのトロッコを
止めきれない、ぎぎぎぎぎ! と、音だけ立て、火花を散らすが勢いは増すば
かり、そして、作業員の男の悲鳴」
監督「うがぁ!」
「どうした?」
「大丈夫か?」
「なんだ? 何があった」」
ボロンコ「挟まれてる! トロッコとトロッコに腹を挟まれてる」
監督「トロッコの中の山積みになった黒い石炭に男の腹から吹き出した鮮血が
飛び散り、血が、血が、血が石炭の山に降り注いでいく」
オーウェン「なにを見ている! 早くこいつを助け出すんだよ!」
ボンパ「オーウェンが叫び、男の悲鳴と騒ぎを聞きつけ作業員が! すぐに、
男はトロッコの間から引きずり出された」
監督「う、うううぅぅ」
オーウェン「腹がばっくり割れて、内臓も圧迫されて潰れている、とにかく血
を止めないと」
ボロンコ「看守もまた騒ぎに気づいた」
看守の声「なにをしている」
オーウェン「看守殿、今、トロッコにこいつが間に挟まれて」
看守「えらい出血だな」
オーウェン「ええ、早く早く傷口を縫合してやらないと」
看守「助かるのかなあ、その傷で」
オーウェン「それはやってみないと」
看守「やってみる? じゃあ、やってみるか」
オーウェン「お願いします、お願いしますよ看守殿!」
ボロンコ「次の瞬間、その看守がとった行動に、その場に居た全員が凍てつい
た。看守はそのはみ出した腸をわしづかみにすると、ずるずると出口に向かっ
て引っ張り始めたのだった」
監督「(絶叫)うああああぁぁぁ!」
ボンパ「あまりのことに、誰一人その場から動けなかった」
監督「看守はずっと男の腸をつかんだまま、長い炭坑を悲鳴と絶叫と共に歩い
て行く。その男の絶叫、ずっと響き渡り炭坑の人間達の耳に残って離れない」
オーウェン「な、な、なにをするんだ、やめろ」
ボンパ「思わず、後を追い看守をつきとばすオーウェン」
監督「看守は転がり、側にあったトロッコに激突、しばらく、うめき、起き上
がることができない。その間、オーウェンはその腸わたを引きずりだされ、と
っくに死んでしまっている男の腸に手を入れ腸を元通りにしてやろうとする」
ボロンコ「しかし、いくらオーウェンともいえども人間の腸がどんなふうに腹
の中に収まっていたのかはわからない、あれこれ両手を血まみれにしながら
も、捻るようにして押し込む、だが収まりきらない、額から脂汗を流し、オー
ウェンはなんとか元の人間の形にしようと焦る」
オーウェン「人に戻してやるからな、このまま助からないとしても、人として
死なせてやるからな」
ボンパ「ようやく、起き上がった看守が怒り狂って叫んだ」
看守「はみ出した腸はこうして腹の中に戻すんだよ!」
監督「軍靴ではみ出した腸を何度も蹴りつける。それをかばうようにして、オ
ーウェンはその上に覆い被さる」
ボンパ「看守は、さらに腰に差した樫の棒を手にして、オーウェンに向かって
振り上げた時、たまらなくなったボロンコがついにその看守をつきとばした」
ボロンコ「やめろぉ!」
監督「当然、すぐにボロンコとオーウェンは顔からなにから殴られまくり、鞭
打たれ、解放されたのは夕方のことだった」
オーウェン「食事だ……食事の時間だぞ、先生」
ボロンコ「口の中がぐちゃぐちゃに切れていて、歯も折れてる」
オーウェン「これを持て、先生」
ボロンコ「スプーン?」
オーウェン「俺も持ってる……さっき飯をもらう時に二つ余計に盗んできた」
ボロンコ「スプーンでなにを」
オーウェン「脱出するんです。トイレの便器の後に穴を掘って。そこから逃げ
出すんです」
ボロンコ「スプーンで、脱走?」
オーウェン「一番奥のトイレはは寒すぎて誰も使わない、そこですよ、先生。
あと少しなんです、先生。手伝ってくれやしませんか、そして、一緒にここか
らおさらばしましょう」

監督「『トイレからの脱出劇』」

 奥の房のトイレ

渡辺原「その便器の裏にはいつくばり、スプーン一杯の土を一杯づつ、一杯づ
つ掻きだしているボロンコ」
ボロンコ「この穴、私には小さすぎるよオーウェン、おまえは通れたかもしれ
ないが、私の肩がつっかえるんだよ、もうちょっと、もうちょっと……」
渡辺原「その肩を不意につかんだ手があった」
ボロンコ「はっ!」
監督「それは、トロッコに挟まれた男の腸わたを引きずりだした、看守の手だ
った」
看守「スプーンひとつで、脱走か? 逃げられるのか、ここから、それで…
…」
ボロンコ「看守殿」
看守「これはおまえ一人の計画ではないな、誰が言い出したことなんだ?」
オーウェン「先生、先生、ボロンコ先生」
看守「あいつか」
ボロンコ「オーウェン、逃げろ、一人で逃げろ」
看守「待て、俺も連れて行け」
ボロンコ「な、なんですって?」
看守「俺も連れて行けよ、先生。ここに長くいると、人間が人間でなくなるか
らな」
ボロンコ「看守殿」
オーウェン「先生、どうしました? 催して、俺のうえに、先生の糞を降らす
のだけは勘弁してくださいよ」
渡辺原「バシャン! と勢いよく人が肥だめに落ちてきた、オーエンが満面の
笑みで迎える」
オーウェン「先生、待ちかねたぜ、ここはどんだけの糞とションベンがいった
い何ヶ月ぶん溜まりに溜まってやがるんだ。まったく臭くて臭くて鼻が曲がっ
てぐるりと一回転してしまいそうなくらいだよ」
ボロンコ「オーウェン、実は」
渡辺原「続いて同じように肥だめに落ちる人の音がバッシャーンと」
オーウェン「誰だ?」
ボロンコ「オーウェン、待て、ロルフルだ。看守のロルフルだ」
オーウェン「見つかったのか? 見つかったのかよ、先生よ!」
ボロンコ「違う!」
オーウェン「終わりだ、ここまで苦労したのに、これでなにもかも終わりだ」
ボロンコ「違うんだオーウェン! 聞いてくれ、オーウェン!」
看守「連れ出してくれるんだとよ、このボロンコ先生が、この収容所のまで一
緒にね」
ボロンコ「すまない、オーウェン、しかたなかったんだ」
オーウェン「(そして、ボロンコに聞こえるように)よりによって、看守殿に
見つかって、連れてきちまうなんて、先生あんた、隙がありすぎるんだよ」
ボロンコ「でないと、俺達は間違いなく、今度こそ殺される」
オーウェン「俺は、あの男がトロッコの男の腹わたを引きずり出して殺した事
を、けして忘れない、許しはしない」
看守「おい! オーウェン、どこまでこの糞とションベンの海を歩かせるん
だ」
オーウェン「(うって変わって、へつらう口調で)もうっちょっと、もうちょ
っとですよ、これで、くみ取りの穴のある収容所の裏に出れば、外へ行き来す
る車が何台か停まっているはずです」
看守「停まっていなかったら」
オーウェン「物資を運ぶ車が次にやってくるまで待つ、ことですかね」
看守「この糞溜の中でか」
オーウェン「そうです、運試しですよ、看守殿」
監督「マンホールの蓋を押し開けると、運良く汲み取りの車が何台か停まって
いた。人糞は畑に撒けば良い肥料になり、収容所の中の農園の作物の育ちもよ
くなるはずだが、それすらも北の国はもったいないと、隣の国まで売りに行っ
ていた。それはオーウェン達にとっては好都合だった。車の下に三人はもぐり
こめず、結局、またしても、汲み取った肥溜めのタンクの中にボロンコ達は身
を沈め、糞まみれになりながら、長い時間揺られたあげく、国境を無事に越え
ることができたのだった」

渡辺原「次なるエピソードへ『眠れ看守』」
ボロンコ「ここは……小作農の家だ、ほら、わずかに雪がつもってるけど、向
こうの田んぼには枯れた稲があんなに」
オーウェン「枯れた稲?」
ボロンコ「私が軒下でも借りれるように話をしてくる」
看守「刈り取られていないままの稲が、あんなに遠くまで。あの垂れた穂の中
には米があるはずだ、もしかしたらこれで、白米が食えるかもしれないぞ」
オーウェン「おかしい」
看守「おかしい、なにが?」
オーウェン「小作農の家の田んぼの稲が刈り取られていないまま冬が来てるな
んて」
ボロンコ「お、おい、ちょっと来てくれ」
オーウェン「死んでる、何人も」
ボロンコ「この家の家族が全員、ひからびて」
オーウェン「餓死、だな、これは、しかし、こんなに稲が穂を垂らした田園の
中にある家で、家族全員が餓死?」
看守「(距離のある感じで)おーい、こっちの田んぼの方へ来てみろよ、ちょ
っと枯れてはいるが、見事な穂を実らせているぞ、この稲は」
オーウェン「実らせている穂を、その米を食わない? なぜ、ここで家族がこ
の家から出ることもなく、みんなで餓死した?」
看守「この米、このままかじっても旨いぞ。しかも、見ろあんなに遠くまでこ
の米の穂は続いているんだ」
オーウェン「待て!」
ボンパ「竈の側から漬け物石を見つけ出してきたオーウェンは、それを抱え上
げまるで円盤投げの要領で、看守殿が立っている場所とは遠く離れているとこ
ろへ向かい、思い切り投げた」
渡辺原「ドーン!という、かつてないほどの地響きのような爆発音が響き渡り
火柱が上がり二人は腰を抜かさんばかりに驚いた」
ボロンコ「漬け物石が爆発した」
オーウェン「(静かに言う)地雷だ」
ボロンコ「地雷?」
オーウェン「見ろ、この水田は地雷の溜まり場になっている。そこかしこに地
雷が折り重なっていて、看守殿は偶然、地雷を踏むことなくその間を歩いて、
あんな遠くまで行くことができたんだ」
ボロンコ「なんで、なんで水田に地雷をこんなに並べなければならないん
だ?」
オーウェン「見ろ、この水田は周りの川や、水路から水を引っ張ってきてい
る。地雷は陸に点々と埋められていた、だが、その直後に豪雨に見舞われたと
したら?」
ボロンコ「どうなるんだ?」
オーウェン「地雷はみな水路を流れ、この水田へと集まる」
ボロンコ「地雷が流される? 地雷ってそんなに簡単に水に流されるものなの
かよ?」
オーウェン「今の地雷は、地面に浅く埋める軽いものだ。ちょっとした大雨で
も流れていってしまうんだよ」
看守「どうやって、俺はこんな遠くまで歩いて来れたんだ? この地雷原の中
を」
オーウェン「運が良かった……いや、悪かったのか」
ボンパ「そして、看守はそこから一歩も動けず、その場に立ちつくしたまま日
が暮れ、一夜を明かし、次の日、真っ青な快晴」
渡辺原「ほぼ一昼夜立ちつくしたままの看守」
ボロンコ「稲に降り積もった雪は溶け、できることと言えば、しゃがみ込ん
で、あたりにある雪をすくい取って口に入れる。だが、すぐに手の届く雪はみ
んな舐め尽くしてしまった。高く上がった日は、水田を乾かす。やがて見え隠
れしはじめる、折り重なった地雷達。その間に立つ看守」
看守「もう立ってられない、疲れたよ、俺は……寝かせてくれないか。ここで
永遠の眠りについたところで、なんの後悔もない。今は眠りたい、ただただ眠
りたい」
ボロンコ「午後になり、天頂まで昇った日がゆっくりと今度は西へと傾き始め
た、雪解けの水は、陽炎となって蒸発し、立ちつくす看守の体が揺れて見える
のは、陽炎のゆらめきのせいだけではなく、すでにまともに立っては居られ
ず、頭をゆっくりと振りように、眠気が彼の頭をわしづかみにして、眠りへと
強くいざなっているように思えた。」
看守「……寝かせてくれ。これで永遠の眠りについたところで、なんの後悔も
ない。今は眠りたい、ただただ眠りたいんだよ」
オーウェン「死ぬことの怖さよりも、眠りたいという欲求が優る時がある。こ
んな時、人はなにを思うと思う、ボロンコ先生」
ボロンコ「怖いだろう、とてつもなく、それでもまだ助かりはしないかという
希望を捨ててはいないと思う」
オーウェン「希望か。朝はまだ、その希望って奴が看守殿にはあった気がす
る」
ボロンコ「今は?」
オーウェン「もうない」
ボロンコ「なぜわかる」
オーウェン「さっき、看守殿の口元が、お母さんと、と動いたんだ」
ボロンコ「お母さん」
オーウェン「人はどうして死ぬときにお父さんと言って死なないんだろうな。
なぜか皆、人は死を覚悟したときに口にするのは、お母さんという言葉だ、人
が生きるか死ぬかの時にお母さんと口走るのは、その人の希望が潰えた時だ」
ボロンコ「私は耳を澄ました。そして、同時にそよ風が強くなり陽炎の揺らめ
きがおさまったかと思うと、不思議なくらいに鮮明に、遠くにいるはずの看守
殿のからからに乾いた喉から出る声が、はっきりと聞こえてきたのだった」
看守「……お母さん、こんな子に育てるつもりなんてなかったよね、あなたに
も、申し訳ないとつくづく思います。みじめな死に際です、そしてもう、眠気
で朦朧としてきました、膝に力が入らなくなってきました。お母さん。ありが
とう。お母さん……お母さん……」
ボロンコ「糸が切れた操り人形のように看守の体が、不自然にしゃがみ込むよ
うな、倒れ込むような動きをしたかと思うと次の瞬間、そこに火柱があがっ
た。ドオン!という爆発音が響き渡り、看守がいたあたりに、黒い煙と灰色の
煙が天高く吹き上がった、ややあって、我々のいる小作農の家の縁側に、ちぎ
れた左足の甲から先が飛んできて、ぐしゃりと音を立てて、落ちて潰れた」

渡辺原「そして、オーウェンとの別れとなる『女人の村』へ」
 
 女人の村

オーウェン「見ろ、先生、あそこに、あの岩の陰にうごく毛皮がいるぞ」
ボロンコ「動く毛皮? 毛皮が動くのかよ?」
オーウェン「なに言ってんだ、よく見ろ、ふさふさとしてまるまると太った山
羊が草をはんでる」
ボロンコ「ほ、本当だ」
オーウェン「焦るな、焦るな、落ち着いて生け捕りにして、あの肉をむさぼり
食うんだ。手頃な石を探せ、それをあいつの眉間にたたきつけてまず失神させ
る」
ボロンコ「それで今晩はあいつの肉が食えるってわけだ、久しぶりの肉だ」
オーウェン「そんなに簡単にあんな大きな獣の肉がすぐに食えるものか、しば
らく逆さにつり下げて、皮をはいだり、血を抜いたりしなきゃ、とてもじゃな
いが、かぶりつくわけにはいかないんだよ。さあ、行くぞ」
ボロンコ「おい、オーウェン、こいつら逃げる気配がない。人が近づくことに
慣れているのか……これはもしかしたら、誰かに飼われているんじゃない
か?」
渡辺原「次の瞬間、オーウェンの頭のすぐ後に何かが迫る。それが自分の命を
脅かす危険な物であることを、オーウェンは直感し、両手に持った石をゆっく
りと地面に置いた、そして振り返ると弓矢をつがえ、ぎりぎりまで引き絞られ
た矢の先が目の前に。それはオーウェンの額の真ん中へと狙いを定め頭部を確
実に貫き通す距離まで近づいていた。弓を引いているのは女。幾重にも毛皮を
まとい、腰に巻いたベルトの片側には予備の矢が入った筒。顔には赤と青のラ
インが引かれ、特に目の下に引かれた薄い黒から白へと短いグラデーションの
アクセントが彼女のきりりとした目をより一層はっきりと印象づけるようにな
っていた」
サンドラ「何者だ」
オーウェン「いや、あの……俺達はけして……」
サンドラ「うちのヤギを盗む気だったな」
オーウェン「はい、そうです、その通りです、おっしゃる通りです。そのつも
りでした。俺達はもう、何週間も、いや、本当のことを言うと肉なんてものを
もう何年も口にしてはいないのです、ですから、このヤギを見つけた時に、ま
さか、誰かに飼われている物だとは思いもしなかったもんで、どうか、お許し
願えますか?」
渡辺原「ボロンコもまた」
ボロンコ「すいません、奪うとか、盗む気なんてこれっぽっちもなかったんで
す。ただ腹が減っていて、それで……そこのところをどうか、ご理解くださ
い」
サンドラ「腹が減っているんだな」
オーウェン・ボロンコ「はい」
サンドラ「おまえ達は、男?」
ボロンコ「え?」
オーウェン「それはそうですが」
サンドラ「食べ物を分けてやる、ついてこい」
監督「女の思わぬ申し出が信じられなかったが、ヤギをその場に置いたまま、
くるりと振り返ると山の林がある方へと、女は足早に歩き始めたのだった」

サンドラ「ここは作物の収穫期の前の祭りの時しか開けないほこらだ、ここの
中に入っていれば、村の皆は誰も気づかない、食べるものも干したものでよけ
れば、室の中にある」
オーウェン「ありがとう」
サンドラ「水はこの上に清水がわいている、山から出ている澄んだ水だ」
ボロンコ「ありがとう、本当にありがとう」
オーウェン「待ってくれ」
サンドラ「え?」
オーウェン「なぜ、おまえは見ず知らずの俺達にそんなふうに親切にしてくれ
る」
サンドラ「珍しいからだ」
ボロンコ「珍しい?」
サンドラ「男とこうして話すのも、初めてかもしれない」
ボロンコ「なんだって?」
サンドラ「私達の村に、男はいない」
オーウェン「男がいなかったら、子供はどうする? 女だけじゃ村は成り立た
ないだろう」
サンドラ「子供を作る時が来たら、女は長に従って、近くの村を襲う、子種を
奪うために」
オーウェン「そんな……それでも、男の子が生まれることがあるだろう」
サンドラ「男が生まれたら捨てに行く」
ボロンコ「捨てに? 自分の子を?」
サンドラ「男は、暴力の泉だ。暴力はすべてを奪う。それが男だ、だから捨て
る。捨てる山も決まっている。けして生き延びることができない、峠に捨てて
くる」
オーウェン「男の立ち入りを禁じられている村に入ってきた俺達をなぜ、あん
たは……」
サンドラ「だから言った、珍しいからだ」
ボロンコ「それだけで?」
サンドラ「不思議と、あなた達には、長がいう、男が持っている暴力ってのを
感じない。もしかしたら、隠しているのかもしれない。でも、今は大丈夫。私
に襲いかかったら、私は四つ足の獣の皮をはぐのがとても上手い。そのナイフ
をさっきからこうして後手に握っているから、いざとなったら」
オーウェン「どっちが暴力的なんだかな」
ボロンコ「とりあえず、助けてくれる味方なんだから、オーウェン、そういう
言い方はやめておけ」
オーウェン「わかってるよ、先生」
サンドラ「じゃあ、また後で」

  と、サンドラが去った後で。

ボロンコ「女だけの村。男を廃し、生まれてくる子さえも山に捨ててしまう。
どこかの本で、読んだことはあるが、まさかこうして実在する村であるとは」
オーウェン「知ってたのかい? 先生はこんな村があるってことを。さすが、
先生は先生だね、何でも知ってなさる。女だけの村? そんなところで生きて
いてなにが楽しいっていうんだい?」

監督「その夜、サンドラはボロンコとオーウェンの潜むほこらへとやってき
て、わずかな食べ物をわけてくれた」
ボロンコ「なぜ彼女が見ず知らずの我々に親切にしてくれるのか、すぐにわか
った。サンドラと名乗る女は、男という物に興味津々だったのだ。それも、私
とオーウェンが二人いて、彼女が選んだのはオーウェンの方だった。彼女は我
々が食事を終えると、私に水汲みに行くように言った。暗い中、言われるまま
に、行くしかなかった。彼女の目的は最初からはっきりしていた。というのも
昼間とは全く違う華美な服でほこらへと現れたからだ。目的がオーウェンであ
ることくらいこういうことには鈍感と言われる私とてわかる。私は素直に水汲
みに行き、時間を潰した。そんな日々がしばらく続いた。だが、その時、いつ
もほこらの明かりを消していた事が、そもそもの悲劇の始まりだった。オーウ
ェンの体の色が変わっていくことに気がつかなかったのだ」
監督「サンドラはオーウェンの体を求めにやってくる。この女だけの村では、
男達のいる村を襲うのは年に一度、それも、子種を得るための、言ってみれば
愛を伴わない男女が行う運動をするだけ。本来の男と女が愛し合い、心を一つ
にしたあげくに訪れる肉体の喜びをサンドラは知らない。だが彼女はここに来
て、それに目覚めた。サンドラはオーウェンとの情事の末にいつもこのことを
口にした「こんな素晴らしい事がこの世にあるなんて」ほこらは小さくサンド
ラがやってきて、小一時間かけ、オーウェンが持ち前のサービス精神を発揮し
サンドラが声を上げまいと布をかみしめこらえ続けてはいる、その声はほこら
の外でぼんやり事が終わるのを待つボロンコの耳に嫌でも入ってくる」
サンドラ「はあ、はあ、はあ……ああっ…」
オーウェン「ああ…ああ…ああ……」
サンドラ「くっ! ううっ! ううううう……」
オーウェン「うぐっ……」
サンドラ「(最後のこの声だけもう耐えられなくなって声が聞こえてもいいと
覚悟して出した声)あああっ!」
ボロンコ「(強く大きな溜息)はあぁ……」

ボンパ「男と女が、交わる。抱き合うのではない、交わる。それはなんだ? 
交わる? ボロンコの日記には、王と王妃は二日ないし三日おきに行為を行
い、それはほとんど王妃の部屋であったと書かれている。僕はようやく、時
折、カッサブが夜更けにヴァネッサの寝室を訪れるわけを知ることができた。
そして、その日に限ってぎりぎりまで側近であるレリーリが寝室いて、ヴァネ
ッサの体を長い時間かけてもみほぐしている理由もなんとなくわかってきた。
しかし、他の部屋の天井に開けられた覗き穴は、部屋の隅々まで見渡せるよう
にボロンコによって穴が開けられていたのだが、ことヴァネッサの寝室だけ
は、天井のシャンデリアが視界を邪魔し、なおかつベッドには大きな天蓋が駆
けられているために、ベッドの上で一糸まとわぬ姿となっているヴァネッサの
裸をまともに見ることができなかった。そして、これはやはり亡命作家も地団
駄踏んだことらしく、その日記に鬱憤をはらすかのように、なぜあそこにシャ
ンデリアがあるのだ、なぜ、誰も入らぬ王妃の寝室にわざわざ天蓋を張る必要
があるのだ、と繰り返し書かれていたのだった。それでも日記には亡命作家の
涙ぐましいまでのやり場のない性欲の処理について、延々と書かれていた。天
蓋が邪魔で見えないかわりに、天蓋の中で交わされるささやき声もはっきりと
聞こえるように、階下の音を集め鮮明に聞こえるような管をいくつも垂らし
た。工夫に工夫を重ね、改良に次ぐ改良が重ねられた。人はこういうことに対
して、恐ろしいほど労力を惜しまず、そして、どこまでも追求する生物である
ことを、身を以て知った。そして、その集音装置に耳を押しつけると、彼らの
営みの一部始終を聞き取ることができた。昼間、あれだけ美しい王妃が、夜に
なるとどれだけ淫らになり、王に迫りより強い刺激を求め、深い快楽に溺れ、
それを一夜のうちに数回にわたって求める。夫である王に愛撫をねだり、深
く、強く、もっと激しくと声に出し、あられもない声を出してはベッドを揺す
り、天蓋すらも揺れた。私は目をつぶりその声を聞いているだけで、充分なほ
ど、王妃は私の味気ない天井裏の生活を満たしてくれた」
監督「ボンパもまた日記に書かれている通りのことがカッサブも行っているこ
とを薄々感づいていたが、亡命作家が記した事実と照らし合わせると、その営
みは時が経とうと、人が変わろうと同じ事が繰り返され続けるものだというこ
とを知った。そして、おそらく、今晩がその日である証しとして、ディナーが
終わると、すぐにヴァネッサは寝室に戻り、後を追ってレリーリがやってくる
と、ドアに付いている二つの鍵を閉め、カッサブが独特のリズムでノックし
て、やってきたことをしらせるまでは、この部屋は完全な密室となるのだっ
た」
ボンパ「まさか天井裏から僕が覗いているなんて思いも寄らないヴァネッサ
は、なんの恥じらいもなく、上着を脱ぎ、スカートを落とし、コルセットを外
し、下着に手を掛け次々に脱いでいく。アップしている髪に刺さっているいく
つかの細い珊瑚のかんざしを抜いていけば、長い髪がばさりと音を立てるよう
に落ち、毛先は腰まで届くほどだ。頭を二度、三度左右に振るだけで、手櫛す
ら使わぬとも綺麗に髪は別れ、そうしている間にレリーリは手提げの幾層にも
別れる小箱を広げ薄いオイルを手に垂らすとそのまま、ヴァネッサの美しい首
筋の下から乳房にかけて、そして、油をつぎ足しながら、細くくびれたウエス
トへと塗り込む手のひらは下がっていく」
レリーリ「いつもより、肌の滑りが今日はよろしいですね」
ヴァネッサ「そう、昨日、よく眠れたからかしらね」
レリーリ「肌そのものがまだまだ美しくなめらかになるお年頃だからですよ、
ヴァネッサ様」
ヴァネッサ「かもしれない、ここのところ、このクーデターも含めて、なにも
かもが上手くすすんでいて、まるで夢のよう」
レリーリ「まだ、これから続きますよ、いやより華やかな人生になっていくと
いった方がよろしいですかね」
ヴァネッサ「それもおまえの占いに?」
レリーリ「はい、はっきりと出ております」
ヴァネッサ「おまえの一族はネズミの一族と陰で呼ばれているくらいだから
な」
レリーリ「それをおっしゃらないでください」
ヴァネッサ「(感じた声)あ、ああっ……」
レリーリ「乳房に張りが出てきました、感じますかこのあたりが」
ヴァネッサ「ええ、とても、気持ちが良いわ、レリーリの手で触られると、特
に」
レリーリ「夕食前に飲まれた媚薬がそろそろ効き始める頃でありますから」
ヴァネッサ「なんといっても、ネズミの一族の媚薬」
レリーリ「不名誉なお褒めの言葉、王妃とて許しませんよ、我が一族を侮辱な
さるなら」
ヴァネッサ「ふふ、おまえの愛撫のおかげで天にも昇る気持ちが言わせた言葉
だ、気に障ったら許せ」
レリーリ「もちろん、本気で怒ったりはしておりませんよ」
ヴァネッサ「あ、ああっ……おまえの一族を怒らせたら、叫び声を上げるまも
なく、死体の山ができるだけだろうからな」
レリーリ「そういうことです」
ヴァネッサ「沈みそうになる船からネズミは逃げる。おまえの一族もまた、滅
びそうな国からはいち早く、姿を消す。故におまえが居てくれる間はまだ、こ
の国は安泰ということだ」
レリーリ「横になっていただけますか、ヴァネッサ様、カッサブ様がいらっし
ゃる前に、たっぷりと濡らしておかないと、また癇癪を起こさせてしまいます
から」
ヴァネッサ「まったく、面倒くさい男だこと」

ボロンコ「女達だけの村のほこらでの生活は長かったようにも思えるし、あっ
という間だったようにも思える。サンドラは食べ物を差入れてくれ、それと同
時に、私は水汲みに行かなければならない。そして、事が終わるのをほこらの
外で待つ。明かりが点くのがいつしか合図になり、ほこらの中が明るくなる
と、頃合いを見計らって戻るということが暗黙の了解となっていた、だが、戻
った瞬間、サンドラの聞いたことのない鋭い声がした」
サンドラ「待って!」
ボロンコ「明るくなったほこらの中でオーウェンの指を見た瞬間にサンドラの
顔から血の気が引いた」
サンドラ「この手はいつから?」
オーウェン「この手? この手がどうかしたのか?」
ボロンコ「それまで一緒にずっと逃走を続けてきた私がなぜ気がつかなかった
のか、それとも、このほこらでの生活の間に急激に悪化したとでもいうのか、
オーウェンの指は真っ黒だった」
サンドラ「ひどい凍傷だ。なぜこんなになるまで放っておいた」
オーウェン「ああ……確かに、真っ黒だ」
サンドラ「足を見せてみろ」
オーウェン「足? 足は……」
ボロンコ「オーウェン本人もまさかここまでとは思っていなかっただろう、そ
の足は指に優るとも劣らず、真っ黒で人の足の色をしてはいなかった」
サンドラ「ひどい、こんなにひどい凍傷を見るのは久しぶりだ」
オーウェン「はははは、さすがの俺もちょっと無茶し過ぎたかもしれないな」
ボロンコ「私はこの時のオーウェンのどす黒い指を一生忘れることはない。人
の指が黒いのだ。それも指先だけではない、手の甲の一部、そして、手のひら
の付け根のあたりまでまだらに黒味を帯び、それが手首からずっと肘に至るま
で、まるで真っ黒い雷鳴の筋のように太い凍傷から枝分かれするようにずっと
上まで伸びていて、かろうじてそれは肘のあたりまでで止まっていた。もちろ
んそれは片腕だけではなく、足については手とは比較にならないほど黒ずみ、
その色はひざまで真っ黒に染まり、太股にまでさらに伸び続けているかに思え
た(そしてオーウェンに)よくこんな足で、ここまで歩けたなオーウェン、お
まえってやつは」
オーウェン「なあに、なんでもない、なんでもない、暖かくしてればきっと元
に戻る時がくるさ」
サンドラ「この凍傷はさらに悪化することはあっても、治ることはない、あな
た達は凍傷の怖さを知らない」
ボロンコ「凍傷の怖さ?」
サンドラ「これはもう切断するしかない」
オーウェン「切断?」
ボロンコ「まさか」
サンドラ「凍傷にかかって治る可能性がない所は切り落とさなければならな
い」
オーウェン「俺はもしかしたら治る可能性がないから覚悟を決めなきゃなんな
いってことなのか?」
ボロンコ「どうしても切断しなければならないんですか、なにか方法はないん
ですか?」
サンドラ「ない」
ボロンコ「じゃあ、じゃあですね、切断しないでいたらどうなるんですか、こ
のままだと凍傷はどうなっていくものなんですか?」
サンドラ「凍傷は壊死を起こす。足の肉が死んでしまう。そうなれば、全身の
健康な血が膿んでしまい、すぐに体中に広がる、高い熱が出て、血が固まり、
つまる」
オーウェン「死んじまうってこともあるってことかい」
サンドラ「十分に」
ボロンコ「オーウェンはショックを隠し切れない様子で、うつむいてその落胆
した表情を読み取れないようにしていた。それが彼の精一杯のプライドの維持
だった」
サンドラ「ただ、もう一つだけ、聞いてもらいたい、オーウェンさん」
オーウェン「オーウェンさん、なんて他人行儀な言い方はやめてくれないか、
呼び捨ててくれてかまわないよ、サンドラ」
サンドラ「オーウェン、あなたは、まず両手は肘から下は切り取らなければな
らない。そして…両足は膝から下を切断しなければならない」
オーウェン「くっくっくっくっ……あははははは、あっはっはっはっは……結
局、俺はこれから、肘から下はないし、膝から下はなくなってしまう。それは
もう人間じゃない、犬だよ、犬。俺はこれから四六時中、犬の格好で暮らすこ
とになるんだ、なあ、そうだろ。それはそれでおもしろいじゃないか、なにも
最初から犬に生まれてきたわけじゃない、人としての子供時代が俺にもあっ
た、思春期もあった、けして実ることはなかったが人並みに恋ってやつもした
さ。そして、挙げ句の果てに犬としての晩年が待っているというわけだ。人生
を二度楽しめると考えたらどうだ、それも悪くはない、別に俺は悲しくはな
い。体がなくなるんだろ。それも朝起きたらいきなりなくなっているわけじゃ
ない。まだ何日かこの手と足と一緒に眠り、頬ずりする時間は残されている。
それだけでも幸せってもんじゃないか。たっぷりお別れを言う時間がある。あ
りがとうと言える時間がある。今まで俺のために働いてくれた右手よ、左手
よ、右足よ、左足よ、ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。おまえ達
がなに不自由なく思い通りに動いてくれたおかげで、俺は人生を俺なりに楽し
むことができた。でも、どうやらそれもお別れの時が来るらしい。それは早い
か遅いかであって、今回の俺の両手と両足はちょっとばかりそれが早かったと
いうだけの話だ。これから数日間の間、別れの時をきちんと過ごしたい、その
時間があることを教えてくれて、サンドラ、君になにより感謝するよ、ありが
とう、サンドラ。ありがとう、本当にありがとう」
ボロンコ「笑うオーウェンの目尻から、一筋、また一筋と細い涙がこぼれ落ち
ていた」
サンドラ「その切断、私がやろう」
オーウェン「なんだって!」
サンドラ「私にやらせてもらえないか」
オーウェン「できるのか、それが君に、やってくれるというのか、君が……そ
れを」
サンドラ「ただし、これはただ失うためだけの手術。立ち向かったとしても、
その後に待っているのは虚しさだけ、それでも、あなたには生きていて欲し
い」
ボロンコ「オーウェンは、そう訴えるサンドラに向かって、凍傷にやられた真
っ黒い両手を差し出して見せた。サンドラもまた手を伸ばしその手をそっと握
りしめた」
オーウェン「冷たいか、俺の手は」
サンドラ「冷たいよ、凍傷の手だもの」
オーウェン「サンドラ、君の白い手とこうして比べてみると、人の手とは思え
ない黒さ、そして筋肉がやられてしまっていて力がまったく入らないから、と
ても柔らかい」
サンドラ「私の手の温かさはわかる?」
オーウェン「ほんの少し」
サンドラ「本当に」
オーウェン「いや、本当のことを言うと、ほとんどわからない」
サンドラ「じゃあ、こうしたら」
ボロンコ「サンドラはオーウェンの手のひらを自分の頬に押し当てた」
サンドラ「これならどう?」
オーウェン「うん、それでも……暖かさは…残念だけど感じない」
サンドラ「だったら、私が覚えておいてあげる。この冷たさを。あなたの手が
ここまで冷たくなってしまって、最後にはなにも感じることができなくなって
しまった、でも、その冷たさを私はね、一生忘れることはない。あなたの冷た
い手。この冷たい手があなたなのよ。こんなに冷たい手をした人はそうそうい
やしない、そして、こんな冷たい手をしているくせに……笑顔は暖かい。そう
言って、生まれてくる子に話してあげる、それも、いつか私は私達の子がわか
る時が来たら話してあげるから、ね」
オーウェン「なに?」
サンドラ「私達の子に話してあげる」
オーウェン「子供……」
サンドラ「私達の子」
オーウェン「なんだって!」
ボロンコ「当たり前といえば当たり前の出来事だった。だから、かもしれな
い。母となったサンドラはオーウェンの両手両足の切断をひるむことなく行っ
た。布を噛まされたオーウェンの側にいくつもの獣の解体に使うナイフが用意
された」
オーウェン「(布を噛んで)う、うう、ううう……」
ボロンコ「幸いにも、凍傷は痛みすらもオーウェンから奪いさっていた」
オーウェン「うぐぐぐぐ……」
ボロンコ「申し訳ないが、私はこの光景に耐えられなくなり、ほこらからで
て、しばらく倒れていた。手足をなくすオーウェンよりも先に、気が遠くなっ
ていく。その目の端にすでに誰かの気配を感じてはいた、と、後から思い出
す。その人影はほこらの中へと入り、そして、中の様子をうかがって出てき
た、そこまでは覚えている」

監督「カッサブ宮殿の天井裏。ある時、いつものようにヴァネッサの部屋を覗
き見たボンパは驚いた。天蓋の中にいつもとは違うシルエットが寝ころんでい
る、枕に顔を伏せ俯せのその姿」
ボンパ「シロン……が、どうしてヴァネッサのベッドに?」
監督「そして、よく見ると二つの鍵を掛けたドアの側に立っているのはレリー
リ」
レリーリ「時間ですよ、シロン王子」
シロン「もう少し、もう少しこうしていたい」
レリーリ「いけません、あなたがそこでそうしていられるのは、私が許した時
間だけです。もしも、このことがヴァネッサ様はもちろん、ビスハラや家庭教
師のジュードにでも知られたとしたら、私とて厳重な処罰を受けます」
シロン「わかってる、でも、もう少し」
レリーリ「シロン王子」
シロン「とてもいい香りがする、ヴァネッサの香り」
レリーリ「浴槽に浮かべた花々の香り、もしくはカッサブ王からいただいた、
特別な調香の香水のせい、ではなく?」
シロン「ちがう。ヴァネッサのこの独特の匂いは僕の鼻をつんとくすぐり、香
りは首筋の後まで貫く、そして、それは」
レリーリ「それは?」
シロン「僕の背中をずっと腰のあたりまで降りていき、僕の腰にいつも火を点
ける。それが夜毎続く……この苦しみ」
レリーリ「その気持ち……欲情といいますが、その降りてくる炎を静める薬を
さしあげましょうか?」
シロン「いらぬことをしなくていい。このギリギリとした体の一部が張り詰め
る感じがたまらなく刺激的だ。いけないことだとわかっている。ヴァネッサは
血が繋がらないとはいえ、母だ。その母の香りが、僕を…興奮の高みへと押し
やってくれる」
レリーリ「血の繋がりのない息子とはいえ、母上を、ヴァネッサと呼び捨てに
するのはどうかと思いますが」
シロン「ヴァネッサはヴァネッサだ。僕には母がもう一人いる。まだ生きてい
て、この王宮を今でも見張っているような気がする母が」
レリーリ「だから、ヴァネッサ様のことは母と呼べずにヴァネッサと」
シロン「レリーリ、なぜ、僕にいつもこのような融通をしてくれるんだ」
レリーリ「私の一族の強い血のせい、といいましょうか?」
シロン「強い血?」
レリーリ「熱情、欲情、執着、なんでもいい、人の気持ちの高ぶりのより大き
な方へ、必ず身を寄せ、そのお役に立つ、それがファランの定め」
シロン「ファラン?」
レリーリ「ネズミをさす古い言葉です」

監督「階下で暮らす王子シロンが、なにか自分にペットが欲しいと言いだし
た。できれば猫の種族が。ネズミに対抗するのは猫、という言葉が何を意味す
るのか、カッサブはわからなかったが、すぐに獣の取引業者を呼びつけた。ペ
ット業者は一も二もなく『それは山猫がよろしゅうございます』と言い、子猫
の頃から厳しく躾けられ、けして人間に手出しはいたしません、御安心下さ
い、と言ったが、やってきたのはほとんど虎に近い大きく鋭い牙を持った豹の
ような動物だった。それでも仕草はかわいらしく、本当に子猫のように王子に
良く慣れ、猫族にはめずらしく犬のように主人を大切にする従順さを持ってい
た。だが、それは山猫の仮の姿でしかなかった。山猫は目に見えぬツメを研
ぎ、その鋭敏な嗅覚と野生動物の直感が、屋根裏になにかが潜んでいること
を、この屋敷に一歩足を踏み入れた時から察知していた」
シロン「ははははは、やめろよ、エンゲルス、おまえに舐められると、舌がざ
らざらしていて、服がぼろぼろになってしまうだろ。いやいい、服なんていく
らでも買ってとりかえればいい、おまえがそうやって、僕のことを好きでいて
くれるのが、僕はなにより嬉しいよ」

 厨房と屋根裏・伝声管

ボンパ「もしもし、ハルビービ?」
ハルビービ「どうしたんですか、王子、ムケルシから、人がいなくなってから
伝声管で王子が話して欲しいって言われて」
ボンパ「うん、そうなんだ、君にしか聞けないことがあるんだ」
ハルビービ「私にしか?」
ボンパ「そう、君にしかだ」
ハルビービ「なんでしょう、なんなりとどうぞ、私でよければ」
ボンパ「男と女はベッドの中でなにをしているの?」
ハルビービ「え?」
ボンパ「男と女はベッドの中でなにをしているものなの?」
ハルビービ「王子……どこでそんな事を知ったの? 屋根裏の本?」
ボンパ「いや、ヴァネッサの……寝室をずっと見ている」
ハルビービ「王子!」
ボンパ「他にすることがないんだよ、僕には」
ハルビービ「それはわかりますけど、でも」
ボンパ「あれは、気持ちがいいものなのかい?」
ハルビービ「そうね」
ボンパ「どんなふうに?」
ハルビービ「どんなふうに? うーん。難しい質問ね」
ボンパ「教えて、ハルビービ、それはいったいどんなものなの?」
ハルビービ「とても素敵なモノとしか言えない、一人じゃないって、思える
時」
ボンパ「一人じゃない……」
ハルビービ「そう、誰かを抱く、誰かに抱かれる、その時、人は一人じゃない
ことを知る、それはね、とてつもなく心がね、安心するっていうかね、ただ単
に体と体が一つになることじゃなくてね、一緒になれる」
ボンパ「そうか、そうなのか、やっぱり」
ハルビービ「でもね、王子、それは誰でもいいってわけじゃないのよ、恋をし
て、愛がないと、そうはならない」
ボンパ「恋? 愛?」
ハルビービ「好きな人と出会うってこと」
ボンパ「そんなこと……」
ハルビービ「大丈夫、いつか、王子の目の前に現れるから」
ボンパ「屋根裏にいたら、そんなことはない」
ハルビービ「いつか、降りてくる日が来る」
ボンパ「ここに居て、目の前に現れるのは、ヴァネッサだけだ……」
ハルビービ「王子」

ボロンコ「手足をなくしたオーウェン。回復は早く、そして、オーウェンだか
らこそなのか、本人は全く以前と変わる様子もなく、そして、回復すると同時
に、私は再び水汲みへとでかけるはめになった。そして、待つ」
サンドラ「ああっ……あああっ……ああああっ…」
ボロンコ「そうしている間にふと、人の気配がし、身構えたが目の前に獣の皮
剥ぎナイフが突き出される方が早かった」
メラミル「声を立てるな」
ボロンコ「う、うん」
メラミル「私はこの村の者だ」
ボロンコ「では!(殺される?)」
メラミル「サンドラの様子がおかしいと噂になっている」
ボロンコ「それで、どうするつもりだ」
メラミル「見てこいと長である母に言われた」
ボロンコ「長である母? ということは」
メラミル「私は次の族長だ」
ボロンコ「見て……どうする」
メラミル「見て、決めるんだ」
ボロンコ「決める? なにを?」
メラミル「希望が、あるかどうか」
ボロンコ「族長の娘は名をメラミルと言った。彼女はサンドラの後をつけ、夜
毎やってきては、水汲みと言って外に出ている私と共に、ずっと、彼らの声を
聞いていた。殺すとか、そういうことでもないらしいが、いったい、なにから
聞けばいいのか、迷った……どうして、この村には男を入れないんだ?」
メラミル「昔、私達の村を挟んだ二つの国が戦争を始めた。私達はそのどちら
の味方もしなかった。中つ村(なかつむら)と呼ばれて中立地帯として、二つ
の国は私達の村の中で戦うことがなかった。けれども、戦の最中の中立地帯で
はなにが起きると思う? 高ぶり、荒ぶった気持ちの二つの国の兵士達は好き
勝手なことをした。ここで戦はない。だけど戦がないからといって平和になる
わけではない。戦わないと言っている村は戦っている者達によって、好き勝手
にされた、身も心も、男も女も」
ボロンコ「そんな、ばかな」
メラミル「そう、私達も最初はどうしていいかわからなかった。気がついた
ら、戦う準備すらしていなかった男達は皆殺され、女達は慰みモノとなった。
武器を手にして村を守ろうとしたのは私の母、でも、その時、すでにおなかに
は私が居た。だから、私は父を知らない」
オオザナレ「私はねメラミル、男が憎いんだよ。殺すこともまったく心にとが
めがない、その男が子供であろうとなんであろうと、男は男だ。だがね、この
まま、この村がこうして続いていくであろうという希望もまた持ってはいな
い。男は憎い、けれども、その憎しみを娘であるおまえに伝えてどうなる? 
私がこの世に生まれてきたおまえに親として伝えたいことは、憎しみではな
い、そう、断じて憎しみなどという気持ちを親が子に伝えてはいけないんだ」
メラミル「母上」
オオザナレ「メラミル、旅に出なさい」
メラミル「旅?」
オオザナレ「次の次の赤き月の夜が、また子種を奪う夜襲の夜だ。その闇にま
ぎれて、おまえはこの村から旅立つんだ。そして、伴侶を捜せ。この世界のど
こかに、暴力と無縁の男がいるかもしれない、その人を探すのだ」

 ほこらの側

メラミル「この世界は暴力に満ちていると母は言う。それでも、と母は言う。
必ずおまえの伴侶は見つかるはずだと。そして、その男と共に、戦いのない村
を今一度おまえの手で作り出すのだ、と」
サンドラ「あ、ああっ……」
オーウェン「う、ううっ……」
サンドラ「あああっ……」
メラミル「サンドラは遅かれ早かれあの男とこの村を出て行く、あなたはどう
する?」
ボロンコ「なにも……考えちゃいない、先のことはなにも、目の前のことだけ
しか考えられない毎日だった、それがもう何年も続いている」
メラミル「だったら、私の旅について来て、私はあなたを雇うから」
ボロンコ「なんだって?」
オオザナレ「生娘の一人旅なんだよ」
ボロンコ「誰だ!」
メラミル「母上」
ボロンコ「母上……って、え? え?」
オオザナレ「こいつか、おまえが選んだ伴侶を捜す旅の道連れとやらは」
メラミル「はい、この者なら充分、私達の村の掟もわかっていて、あの手足の
ない男とサンドラのやりとりもずっと見ていましたから……この男も信用でき
ると」
ボロンコ「男は殺すんじゃないのか?」
オオザナレ「おまえは殺されたいのか?」
ボロンコ「そんなことは……」
サンドラ「あ、ああっ……」
オーウェン「う、ううっ……」
ボロンコ「あの二人はどうする? 生かしておいてくれるのか?」
オオザナレ「私は犬は殺さぬ」
ボロンコ「オーウェンは犬ではない」
オオザナレ「侮辱ととらえるな、私の中では犬は男よりも上だ」
ボロンコ「そんな……」
オオザナレ「あの犬にはきちんとした愛があるではないか、心があるではない
か。あの犬にこそ希望がある、この村の未来がもしかしたら、あの犬に……あ
の男にこそあるかもしれない」
ボロンコ「俺は……どうなる?」
オオザナレ「おまえに選ぶことはできない、言われた通りのことをしろ、そう
すれば命は奪わん」

監督「ふた月はまたたく間に過ぎ、赤い月の夜襲の日の前に、オーウェンとボ
ロンコは別れを告げた」
オーウェン「すまないな、先生」
ボロンコ「おまえが謝ることじゃないよ、オーウェン、さんざん助けてもらっ
たのはこっちの方だ」
オーウェン「なにかたらふく食いたかったな、先生と、そして、もうこれ以上
は飲めないってくらいに酒をかっくらって、足下なんかふらふらになって、道
ばたでゲロゲロ吐いてさ、ああ、気持ち悪い、なんでこんなになるまで飲んだ
んだろ、バカだな俺達、っていう先生に向かって、俺は言ってやりたかったこ
とがあるんだよ」
ボロンコ「なんて……言いたかったんだ、オーウェン」
オーウェン「バカでーす。俺はバカなんでーすってね」
監督「オーウェンはそう言って笑った。ボロンコもつられて笑った」
ボロンコ「思えば久々にオーウェンの口からその言葉「バカでーす、俺はバカ
なんでーす」という陽気な言葉を聞いた。収容所でさんざん耳にしたこの言
葉。あの時はイラっとして、心の底からののしったが、今、ここでまったく同
じ言葉を聞いた時、オーウェンがなぜこの言葉を繰り返してみなの顰蹙を買っ
ていたのか、その本当の意味が理解できた気がした。そう、今、この瞬間のた
めの「バカでーす」という言葉だったのだ。いとおしい、愛してやまないオー
ウェンの『バカでーす』」
オーウェン「バカでーす」
ボロンコ「オーウェンが最後に私に言った言葉もこれだった」
渡辺原「木製の椅子の足を短くして、やはり木で作った車輪を両側につけた手
作りの車椅子をサンドラが牽き、オーウェンはいつまでもその姿を見送ってい
るボロンコとすっかり旅支度を調えた長の娘に向かって笑顔で手を振り続けて
いた」
メラミル「さあ、私達も旅に……夕暮れまでに峠を越えれば滝がある、そこに
今夜わずかな時間、機関車が停まる、それに乗るんだ」
ボロンコ「滝の側に? 機関車の停まる駅が?」
メラミル「いや、駅はない」
ボロンコ「駅はない? でも機関車が」
メラミル「その機関車はレールの上を走る機関車ではない」
ボロンコ「なんだって?」
メラミル「線路なき荒野を、湿地を、自由に走る、何かから逃げるため、どこ
かへ本当に行ってしまいたい者だけが乗る機関車」
ボロンコ「大丈夫なのか、そんなものに乗って」
メラミル「そのためにおまえがいるんだよ、先生」
ボロンコ「付き添いの下僕の俺を先生と呼ぶかな」
メラミル「旅先ではきっとそう呼んだ方が自然だ。男と女ではない、先生と生
徒、だがその実は」
ボロンコ「男を捜す旅の付き添いか」
メラミル「さあ、急ごう、列車は待ってはくれない」
ボロンコ「線路なき荒野を行く機関車へ」
メラミル「南へと向かう」
ボロンコ「南へ」
メラミル「そう、南へ、向かおう」
ボンパ「線路なき荒野を行く機関車。そんなものがあるんだ、この世のどこか
に」
監督「本の中のボロンコには、希望があった、自由があった。だが、今のボン
パにはそれが眩しすぎて、それ以上読み進めることができなくなっていた。自
分には自由がない」
ボンパ「もしかしたら、ボロンコの最後のように、僕もここでこのまま死んで
しまうのかもしれないな」
監督「まさか、その線路なき荒野を走る機関車に自分がドードーを抱えて乗る
ことになろうとは、この時、ボンパは夢にも思わなかった」

渡辺原「カッサブの宮殿、シロンの部屋。夜、ベッドへと入った後もシロンは
山猫へと手をのばし、撫でてやる。やがて、シロンが寝入ってしまうと、それ
まで飼い主の小さな手に身をゆだねていた山猫の目がカッ! と見開かれる。
ベッドから床へと物音一つ立てずに降り立ちドアへと前足を伸ばし、器用に音
もなく開けることができた」
山猫「なあ、シロン坊や、ペットでいる時間は私の時間ではないんだよ。私は
これから、狩りに出かける、私にはその時間が必要なんだ。狩るんだ、これか
ら。天井裏に身を潜めるなにかを。私は獲物を欲している。たまらなく欲して
いる。どうしようもない、私が私であるために、私は狩りをする、どこにいて
も、どんな時でも」
監督「山猫は王宮の外へと出、屋根を振り仰いだ。この王宮には知られていな
い部屋があり、そこにこの王宮の中で山猫が獲物を狩る行為をして許される唯
一のモノが潜んでいる。だが建物の中のどこを調べても、その部屋へと通じる
通路はない。あとに残されているのは、……山猫が入ることを許されていない
ただひとつの場所、厨房の中。だがその肝心の厨房に獣が足を踏み入れること
は料理長ギンベルが断固としてことして拒んだ」
ギンベル「衛生上よろしくないものでね」
監督「そして、山猫はある時、気がついた。下から上がろうとするから手段が
ないのだ。屋根へと上り、そこから天井裏へと降りればいいのではないか、
と」
山猫「あるはずだ、きっと・・・どこかに、私なら入り込める隙間が」
監督「東の空がうっすらと明るさを増してきた頃、屋根うろついた山猫はそれ
を見つけることができた。小鳥が飛び込む小さな穴、その窓から中をうかがっ
てみる」
山猫「ぐるるる・・」
山猫「小さい、頭が、入らない」
監督「もがく山猫の声を聞きつけ、起き上がるボンパ。声をたどって小窓の側
へ。そこで初めて山猫と間近で接し。ボンパは、覚えたての山猫の言葉で話し
かけてみた」
ボンパ「この天井裏に気が……ついたか」
監督「驚いたのは山猫だった」
山猫「おまえ、私の言葉がわかるのか」
ボンパ「わかる。僕はずっと屋根裏から君の事を見て、それで覚えたんだ山猫
の言葉をね」
  そして、言葉とは別に猫族の、うなり声を上げる。
山猫「(猫語)ぐるるるる・・・」
山猫「私は生まれた時からずっと、ツメと牙を隠して愛される動物を演じ続け
てきた。私もまたあのバカ王子の愛玩動物であり続けなければ、命はないの
だ。しかし、私は実はとてつもなく飢えている、腹は与えられた餌で膨れてい
るが、胸の奥が飢えているんだ。私が本当に必要としているのは、追い詰める
獲物が見せる恐怖の表情だ。それが私にとって、生きるために必要なモノなの
だ。今、この瞬間、これだよ、これ。これなんだよ。必ずまた来るぞ、ボンパ
王子!」
ボンパ「(つぶやいた)山猫、エンゲルス、僕は山猫の言葉を覚えた。これで
話ができるんだよ僕達は……だから、話をしようよ、せっかく、出会えたんじ
ゃないか、なあ、エンゲルス」
渡辺原「だが、この山猫に異変が起きるのもすぐの事『エンゲルスの寿命』」

  シロンの部屋

シロン「エンゲルスが! エンゲルスが起き上がれなくなってるんだ」
渡辺原「すぐに呼ばれてきた獣医、ジョン・ボップ。変わった生き物ばかりを
専門に診るという変わった獣医」
山猫「おまえ、俺の言葉がわかるのか?」
ボップ「片言だがな。君は自分がどういう動物か、知っているかい?」
山猫「私は……山猫だ」
ボップ「そう、山猫は山猫でも非常に珍しいサカルニ山猫と呼ばれる、とても
数の少ない、貴重な山猫なんだよ」
山猫「なんだと」
ボップ「私はこれまで数多くの山猫を診察してきたが、君が話す言葉は特に古
い、いいか、良く聞けエンゲルス、君の命はそんなに長くはない」
山猫「なんだと!」
ボップ「腹を触って、脈をとり、眼球をみせてもらった。血液検査の結果も出
た。キミは弱っている、刻一刻と確実に死に向かっている」
山猫「なにが? なにが原因だと言うんだ?」
ボップ「おそらく、ストレス」
山猫「ストレス」
ボップ「山猫って奴はそもそも、こんなふうに人間のペットとして生きていけ
るような動物じゃない。常に飢え、獲物を探し回り、そして、身を潜めて襲い
かかり、生肉を食う。なのに、キミときたら、生まれた時から甘い生活だ。確
実にキミの心の奥底にある、常に飢え、獲物を捕っていたいという、獣として
の本能が悲鳴を上げたんだ「俺はこんな生き物ではない」とね」
山猫「そんな、そんな……」
シロン「先生、エンゲルスは、どうなんですか? 元気になれるんですか?」
ボップ「大丈夫です、ちょっと疲れているだけですね」
シロン「すぐ治る?」
ボップ「治りますとも」
監督「余命を告げられた山猫エンゲルスは屋根裏襲撃を決行する時を急いだ。
王子シロンが寝静まるのを待ち部屋を出る。ただし、この日に限ってジュード
が、シロンの寝室のドアが見える物陰で静かに待機していた。山猫は外へ出
る、ジュードが追う、すぐに山猫は全身をバネにして、屋上へとあっという間
に上がっていった」
ジュード「屋上か、まずい!」
渡辺原「ジュードは翌日の料理の煮込みを夜更けまで掛かってやっているギン
ベルの元へ」
ジュード「ギンベル、ギンベル!」
渡辺原「ジュードは山猫が屋根裏へと侵入したと告げる、そして、自分を屋根
裏へと案内しろと迫る。ギンベルはしばし躊躇した。その様子を見て、ジュー
ドは側にあった長い包丁を手にしたのだった。一瞬、厨房の連中が身構えた
が、ジュードはその切っ先を自分の喉に宛てた」
ジュード「もしも王子に何かあったら、私はこの場で自害する覚悟だ」
ギンベル「そんなことをして何になる」
ジュード「脅しに思えるか」
ハルビービ「料理長!」
バオブ「落ち着け、まず包丁を降ろせ」
ジュード「これでも私を信じないか?」
バオブ「料理長、いいんじゃないんですかね」
ギンベル「信じていないわけではない」
ジュード「だったら!」
ギンベル「あのクーデターで、逃げのびた反乱軍は、なぜこんなにも長い間、
王子の救出に手間取った。いつまで、天井裏に押し込めておくつもりだ。あん
な子供を、王子がどんな思いで千日千夜の時を過ごしたと思っているんだ」
ジュード「それも、まもなくだ。大陸への密航船の手配も、向こうへ行き名も
変えてしばらく隠密に暮らすための準備も整った」
バオブ「千日千夜かかることか」
ハルビービ「あの年の子供にとって、三年近い日がどういうことがわかってる
の?」
ジュード「反乱軍とて、公に王子を探すことができない。なにしろボンパ王子
にはカッサブによって今も莫大な賞金がかけられているんだ。待たせた、それ
は謝る、だがどうか王子に会わせてくれ、一刻も早く!」
ギンベル「冷蔵庫の中へ来い、そこから屋根裏へ行ける」

監督「ガリッ! ガリガリッ! 眠っていたボンパの耳に、これまで聞いたこ
とのない音が聞こえ、一気に目が醒めた。廊下へと出る。目をこらすと丸く銀
色に光る目が二つ。そして月明かりをバックに山猫のしなやかなシルエット」
ボンパ「エンゲルス!」
山猫「待っていたよ……この時を」
監督「咄嗟にボンパは部屋へ。
 ベッドへ身を投げ枕を掴み投げつける。
 山猫は首をわずかに傾けて避ける。
 すぐに目の前に真っ白い布が広がる。
 ベッドのシーツ。
 前足のツメでシーツを裂き、払いのけ、そのまま、ボンパ達に突進する山
猫。
 ボンパもまたすぐさまマットレスをひっくり返して盾にし、その間にドード
ーを小脇に抱え、廊下へと出るなり。反転して、ドアを足で勢いよく蹴って閉
める。
 次に逃げ込める部屋を探した」
ドードー「どうして? どうしてあいつがここにいるの?」
ボンパ「屋根の上だ……上からここに降りて来たんだ」
ドードー「本棚の並んでいる書庫は、あそこは鍵がかかる!」
監督「ボンパが蹴って閉めたドアを破り、山猫はすぐ後を追う。
 小さな図書館として作られた、本棚が並んだ書庫と呼ばれる部屋。
 ボンパはするりと中へと入る」
ボンパ「もたもたするなよ、ドードー」
ドードー「これでも全速力なんだよ」
監督「ボンパがドアを蹴って締めた、だが、気がつくと山猫は書庫のドアの内
側にゆらりと立っていた」
山猫「元王子、これでもうどこにも逃げられない。怖いだろう、どうだ、怖く
て怖くてたまらないだろう……(笑う)くくく……」
監督「ついに山猫がボンパとドードーに向けて飛んだ」
ボンパ・ドードー「(短く鋭く)あぁっ!」
監督「鋭いかぎ爪とボンパの間に割って入る人影。ガシッ! そのツメを受け
止めたのは宝石がちりばめられた装飾のある刀の鞘。それを握るのは男」
山猫「ジュード! 貴様!」
監督「家庭教師、いや反乱軍の密偵は短剣をゆっくりと鞘から抜き放つ。山猫
は反射的にその刃から距離を取って飛び退く」
ボンパ「ジュード」
ジュード「初めましてボンパ王子、といっても、まだヨチヨチ歩きの頃に一度
だけ抱っこさせていただきましたがね」
監督「ジュードはフェンシングの構えのように、短剣の先をを突き出した。山
猫は隙をうかがい右に左にゆっくりと動く、が、その威嚇のための唸り声は、
いつしか苦悶の声へと変わり、すでに四つ足で立っているだけで精一杯になっ
ていた」
ボンパ「どうしたエンゲルス?」
監督「山猫の明らかな異変に気がついたのはボンパの方が先だった」
山猫「体が……体が動かない」
ボンパ「エンゲルス!」
山猫「どうしたんだ、獲物がいて、戦いの場にこうして立っていられるこの幸
せの最中に」
監督「山猫の体は、ふいに力が尽き果てるかのようによろけ、そのまま受け身
をとることもできずに、音を立てて崩れた」
ボンパ「しっかりしろ、エンゲルス」
ジュード「(鋭く)王子! 寄らないで」
ボンパ「でも、エンゲルスの口から」
ドードー「血の混じった泡が出てる」
山猫「体が動かない。バカな、体が、体が動かない……獲物を前に、体がいう
ことをきかない!」
ボンパ「エンゲルス!」
ジュード「王子!山猫がなにを言っているかわかるんですか?」
ボンパ「わかる、エンゲルスはもう起き上がることすらできないでいる」
山猫「狩りを……したい…獲物を……追い詰めて……噛みつき、切り裂き……
そして……そして……どうなるというのだ……」
ボンパ「ジュード、頼みがある、こいつをエレベーターで下に降ろしてシロン
の側に」
ジュード「こいつをですか?」
ボンパ「せめて、せめてシロンの側に置いてやってくれないか」
ジュード「わかりました、ボンパ王子」
ボンパ「ありがとう、ジュード」
ジュード「そして、ボンパ王子、よろしいですか、あなたの居場所がわかった
以上、すぐにでも、大陸への船を用意します、旅立ちの準備をお急ぎ下さい」
監督「こうして、真夜中の王宮の廊下をジュードに抱えられて運ばれるエンゲ
ルス。意識は朦朧とし、自分の自慢のツメとて出せない。獰猛な野生の種族は
自己嫌悪で幾度も吐きそうになっていた」

渡辺原「次の日、朝、早く」
シロン「ボップを呼べぇ!」
監督「目を覚ますなり、山猫の異変に気がついたシロン」
渡辺原「すぐさま、姿を現す獣医、ボップ」
山猫「先生、聞いてくれ」
ボップ「なんだい」
山猫「この王宮には天井裏がある。そこに、この前の国の王子が、隠れ住んで
いる、頼む、カッサブ王国の人間にこのことを…伝えてくれ」
ボップ「断る」
山猫「なに?」
ボップ「私の仕事は、病んだ動物の治療だ。変わった動物に興味はあっても、
変わらぬ人間のゴタゴタには昔から、興味はない」
山猫「頼む、お願いだ……」
ボップ「いいか山猫、人間には二種類いる。良い人間と悪い人間だ。私は悪い
人間の方なんだ。まあ、一目瞭然だとは思うがな」
山猫「おまえ……」
ボップ「なんだ?」
山猫「最低だな」
ボップ「褒めるなよ、顔がニヤけてくるだろう」

そして、ボップ、側に立ちつくすシロンに。

ボップ「シロン王子、誠に残念ながら、御臨終です」
シロン「エンゲルス!」
ボップ「まったくもって、いったいなにが原因なのか。疫病でもない、何かし
ら大陸から渡ってきた新種のウイルスにやられたのか」
シロン「ボップ先生、最後にエンゲルスはなんて言ったの?」
ボップ「シロン君と過ごした日々はとても楽しかった、と」
シロン「僕に……ボップ先生みたいにエンゲルスの言葉がわかったら……先
生」
ボップ「なんだい?」
シロン「お願いします、僕に動物の言葉を教えてください」
ボップ「それは無理な相談だ。私は流れ者でね、普通の獣医では手に負えない
珍獣を専門に治療している獣医だ。旅から旅の日々。王子、あなたの側で動物
語の先生をやるわけにはいかないんですよ」
シロン「そう……ですか」
ボップ「そろそろおいとましなければ、こんばんはなんでも、猛烈なハリケー
ンがやってくるらしいからな、港で足止めを食ってはたまらない」

渡辺原「千日千夜の日々において、初めて厨房から上がってきたエレベーター
に食事はなく、ジュードからの一通の手紙」
ジュード「今宵、船が来ます。人を運ぶだけの密入国船をチャーターしまし
た。王子、お待たせしました」
ボンパ「(叫ぶ)ドードー!」
ドードー「ドードー」
ボンパ「世界だ!」
ドードー「世界?」
ボンパ「僕達は世界へ出る時が来たんだ」

渡辺原「夕方近く、シロンは入ることが許されていないヴァネッサの寝室に、
午睡中の彼女を訪ねた。すっかり旅支度を調え、鞄を提げたその姿で」
ヴァネッサ「シロン、どうしたの?(察した)まさか!」
シロン「ヴァネッサ、お別れの時だ。僕はこの王宮を旅立つ」
ヴァネッサ「シロン、あの獣医、ボップの後を追うつもりで」
シロン「あの人の元で僕は勉強して、あの人のように動物と接することができ
る人になりたい。僕が、エンゲルスの言葉がわかっていたら……動物にも言葉
がある。それを知らなかったために、エンゲルスは死んだ」
ヴァネッサ「シロン王子」
デシレル「獣の医者になりたいだと? なにをバカな! あの男の跡を追うこ
となど断じて許しません、あなたはこの国の次なる王となる身なのです」
シロン「ヴァネッサ」
監督「シロンは母へと歩み寄った。互いの体が触れあうほどシロンは近づき、
さらに距離を縮める。それ以上、近づくことを拒もうとしたその手首を、シロ
ンが両手で掴む。十一歳を越えたシロンの腕の力が、ヴァネッサの両手を後に
回す、ヴァネッサは自然と胸を突き出す姿勢となり、その顔にシロンは唇を寄
せていく」
ヴァネッサ「これは、これだけは……」
監督「シロンは有無を言わさず母の唇に自分の唇を押し当てた、固く閉じられ
た拒むヴァネッサの唇もまた徐々に開いていく」
デシレル「……なんと、なんということだ」
監督「長い長い、初めての接吻」
シロン「世界が男と女で成り立っているのだとしたら、僕にとって女とはあな
たのことだ。ヴァネッサ、あなたはなぜ僕の母なんだ、僕はあなたを見ると、
いやおまえの香りを嗅ぐと、気が狂いそうになる。」
ヴァネッサ「シロン!」
デシレル「シロン!」
ヴァネッサ「シロン!」
デシレル「(叫ぶ)シロォン!」

そして、去っていくシロン。

渡辺原「そして、屋根裏で暮らすこと千日千夜、その日、夜半から激しい嵐。
その台風の中、ついにボンパは屋根裏から厨房へと千日ぶりに降り立った。そ
して、厨房の皆と久々の再会を果たす」
ボンパ「みんな!」
バオブ「王子」
ハルビービ「王子」
ロツボル「ボンパ王子」
ギンベル「お久しぶりです。王子」
ムケルシ「うわぁ、ドードーが、こんなに大きくなって」
ドードー「ドードー、ドードー」
ボンパ「毎晩、おいしい食事をありがとうギンベル」
ギンベル「すべての料理は屋根裏のボンパ王子の、あなたの事を思って作りま
した」
ハルビービ「あの国王を名乗る者達に出すごちそうを作っていると思うと、気
が滅入ってしかたがない」
ロツボル「自分で自分が嫌になるとこでしたよ」
バオブ「まったくそうだ、本当にそうですよ」
ジュード「急いでくれ、船はもう来ているそうだ」
ボンパ「まだこれからも続くんだね、この料理の千夜一夜は」
バオブ「今晩から次なる二千一夜の始まりです」
ハルビービ「新たなる千夜一夜」
ギンベル「でも、王子、なんら恐れることなどありません。あなたがあの時、
おっしゃってくれた、このアルカイエの料理長ピーター・ギンベル。二度と料
理で人は殺しません。御安心ください」
ジュード「王子、早く、こちらへ!」
渡辺原「反乱軍が用意してくれた密航船まで嵐の中、ドードーを抱えて走って
いくボンパ」
監督「一寸先も見えない豪雨とはこのこと。目を開ければ大きな雨粒が飛ぶ込
む、腕の中に抱きかかえるドードーは『ドードー! ドードー!』といつにな
くうるさい、横なぶりの雨、下からさえも吹いてくる突風、体ごと吹き飛ばさ
れてしまいそう暴風雨の中、それでも港へと向かう王子ボンパ」
ジュード「急いでください、王子!」
渡辺原「と、そのドードー鳥を抱え走るボンパとジュードの前に、立ちふさが
るのはビスハラ」
ビスハラ「待ちな、裏切り者!」
ボンパ「ビスハラ」
ビスハラ「これが王子か、どこに居た、こっそりと……どうやって生きてい
た? 食べる物は? 食べる……物? 厨房の連中もみんな……そうか、そう
だったのか。なるほどな、さあ、待たせたな、これでなにもかも」
ジュード「なにもかもが……どうなると言うんだ」
渡辺原「ジュードは、短剣を抜くと横なぶりの嵐の中で構えた」
ジュード「ボンパ王子、先に港へ。今にも沈んでしまいそうな船が泊まってい
るはずです、どうか無事に大陸へ、反乱軍の同士達の元へ!」
ビスハラ「逃すか!」
渡辺原「ボンパを追おうとするビスハラに繰り出されるジュードの短剣の切っ
先。ボンパは駆け出す」
ビスハラ「待てぇ!」
ジュード「行けぇ! 行くんだ王子!」
渡辺原「走る王子、ボンパ・アルカイエ。走る、必死に、暴風雨の中を走る…
…」
ボンパ「こっちだ! ドードー!」
ドードー「夜明けのはずが、まだ真っ暗だ」
ボンパ「夜は明ける。まもなく、夜は明ける」
渡辺原「唐突に銃声の音。ビスハラの手に握られている短銃の銃口から煙。そ
の弾はジュードの左の膝を貫いていた」
ジュード「うっ!」
ビスハラ「ジュード、次は心臓を貫いてやる」
渡辺原「だが、ビスハラが引き金を引くより早くジュードの短剣はビスハラの
腹へ、厚い肉に刃物が突き立つ音!」
ビスハラ「はうっ!」
ジュード「おまえは知りすぎた、生きていてもらうわけにはいかないんだよ」
ビスハラ「貴様、貴様ぁぁ!」
デシレル「ビスハラ!」
ビスハラ「デシレル様、未練です、どうやら私めはここまでのようです」
デシレル「ビスハラ、おまえが息絶えれば、誰も私の言葉を伝える者がいなく
なるではないか!」
ジュード「ビスハラ、おまえの死体はボンパ王子が大陸へと渡る船に乗せても
らう、そして、そして、潮の流れが変わるところで亡骸を投げ捨ててもらうと
する」
レリーリ「ヴァネッサ様、レリーリです。夜分にもうしわけありません。もう
お休みでしょうか」
ヴァネッサ「どうしたレリーリ」
レリーリ「たった今、ビスハラが命を落としました」
ヴァネッサ「本当か?」
レリーリ「カードがそれを示しています。これで肖像画の亡霊は、誰にも聞こ
えない叫びをあげ、半狂乱となる。宮殿の広間には怨念の悲鳴がこだまする、
私の耳にしか聞こえぬ絶叫。しかし、あの女の魂の言葉を私は断じて口にしな
い。怨念の金切り声が響く中、この宮殿は静寂そのもの」
ヴァネッサ「レリーリ」
レリーリ「はい」
ヴァネッサ「ずいぶん嬉しそうに見える」
レリーリ「それはお気のせいでございましょう」

監督「そして、ボンパは波に揉まれる密航船へ」
ボロンコ「王子が持つ少ない荷物の中にまだ読み終えていない一冊の本。『お
それを知らぬ陽気なヤギが一頭の痩せたロバを救い、痩せたロバ、世界を救
う』!」
監督「吹きすさぶ豪雨の中、遥か遠く離れた王宮。荒波に揺れる船上、ボンパ
の腕の中のドードーが遙か彼方の宮殿に向かって力の限り叫ぶのだった」
ドードー「これが僕の国、僕の居場所、僕を待ってくれている人がいる。僕は
帰ってくる。ボンパ王子と共に、いや、ボンパ・アルカイエ国王とともに」
監督「そして、ボンパもまた」
ボンパ「みんな! 生きていてください! 必ず生きていてください、料理を
作り続けてください! あなた達が作り出す料理は世界一の料理です。それに
誇りを持って。いつか、遠くないその日に僕はこの国に帰ってきます、この僕
のドードー鳥と一緒に、そして、この国の奪われし王権を必ずや、取り戻し、
いつの日かその世界に誇ることのできる厨房のみんなが笑顔で、また素晴らし
い料理ができるように、必ず、必ず帰って来ます、そして、あの王宮の中庭
に、このドードー鳥のシルエットの入った国旗を高だかくかかげ、旗のもとで
みながかつてのように幸せに包まれた笑顔で暮らせるその日を取り戻してみせ
ます。それまで、しばしの辛抱を、僕の王国である証、ドードーの旗のもとに
集う日が来るその時まで、どうかみなさん、もう少し希望を捨てず、涙を払
い、生き延びることを考えてください。どうか、もう誰も死なないで、人も、
動物も、みんなみんな生きて、生きて、生きて、生きて、生きて、生きていて
ください。また、必ずお会いするその時まで、いつの日か………ドードーの旗
のもとに!」

  そして、ゆっくりと暗めの明かりへ。
  舞台の床面には目の覚めるようなレッドカーペットが斜めに敷かれてい
き、両脇に並ぶように、それまでの出演者、黒いケープを羽織り整列してい
る。
  そこへ降りてくる監督。
  監督、レッドカーペットの上を歩き下手のマイクの前に立つと最後の演説
の準備へ。
  曲、もりあがって、ドレス姿のボンパ役の女の子がゆっくりと上手から登
場、ボンパ役の女優、ドレス姿。
  レッドカーペットを通り、上手のマイク前へ。
監督「今日、この日、西暦二千百十一年、一月『ドードーの旗のもとに』第一
章、少年よ、千夜一夜の夜が明ける。
  封切りの日、前夜。この時をいったいどれだけの人が待ち望んだ瞬間でし
ょうか。関わった数多くの人々の死力を尽くした映画は完成し公開を明日に控
えた日がついにやってきたのです。思えば二十一世紀初頭、百年後に完成する
映画を作ると言い出した男がおりました。この壮大な夢を語った者はすでに鬼
籍に入り、今日のこの晴れの場に立ち会うことができません。ですが、誰より
もこの瞬間を待ちわび、そして、喜んでいることと思います。百年の年月、百
年の夢………人々の夢見る力に、夢を見続ける力に敬意をこめ、そして、ここ
に……黙祷」
一同「黙祷!」
  一同が、黙祷。
  その瞬間にカーペットの周りにいた人間はみんな一律に三十度の角度で頭
を下げた、それに応じてヒロインもまた姿勢を低くするヒロイン特有の挨拶。
  同時に壮大なるレクイエムがもりあがっていく。
  全員が頭を垂れたまま、ゆっくりと舞台は暗転していく、ゆっくりと……
  群衆朗読劇『ドードーの旗のもとに』第一部 これにて完。
 
 おしまい

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